ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は特別編として、「早稲田文学増刊 U30」に掲載された井上明人さんの論考をお届けします。ゲームが「作品である」とき、それはどのような事態か。その問いに答えるべく、前編では「切り取られた〈いま・ここ〉」について論じます。 (初出:「早稲田文学増刊 U30」、早稲田文学会、2010年)
コンピュータ・ゲームのようなメディアが「作品である」というとき、それはどのような事態だろうか。
コンピュータ・ゲームというメディアは、コントローラーを手にして直接に遊ばなければ作品として楽しむことができない、とふつう考えられている。
しかし実は、直接手にしなくともゲームが楽しまれる経路は存在する。例えば、ニコニコ動画における「ゲームプレイ実況」と呼ばれる一群の動画が、最近大きな支持を得た。いまや、国内で一四〇〇万アカウントを抱える動画サービス、ニコニコ動画の中でも非常に人気のある動画ジャンルの一つとなっている。
「ゲームプレイ実況」の動画とは、その名の通りゲームプレイヤーがゲームを遊びつつ、ゲームの展開について実況を交えて解説したり、驚きの声をあげたりする声が吹き込まれている動画だ。『スーパーマリオブラザーズ』シリーズなど、よく知られたゲームについては、概ねこうした実況の動画が存在している。動画の閲覧者は、自分自身がゲームを遊ぶわけでもないのに、二時間も三時間も食い入るように、どこかの誰かがゲームをしている風景を眺める。彼らはみな自らの手でゲームを遊ぶわけではない。ゲームというメディアを「遊ぶ」ことだけに焦点化して考えようとするとき、この事態は説明ができない。
ゲームとは、百人が遊べば、百様のプロセスが生じる。そこには、無数の展開が生まれ、『スーパーマリオブラザーズ』(以下、『マリオ』)や『テトリス』といった「作品」はそれらの展開を媒介するようなものとして機能しているだけだとも言える。プレイ実況の動画は、ゲームを遊ぶプロセスを一つの物語として見せている。実況動画という形で成立した、ゲームを介した物語を紡ぐ動画を一つの「作品」として数えるとき、ゲームというメディアは、それ自体も「作品」でありながら、それを媒介とした無限の「作品」を可能にするものだ。将棋というゲームがほとんど無限に近いプロセスを持つものだと語る人は多い。将棋は宇宙であるという人もいる。ゲームが無限をたずさえるメディアなのであるとすれば、無限の在り様について語ることは容易ではない。『マリオ』が生み出す一つのプロセスを経験することから、帰納的に『マリオ』のことを語ることはできても、未だ見たことのない『マリオ』の物語は無限に存在する。
さらには、どこかの誰かが勝手に『マリオ』のプログラムを改造した『改造マリオ』も大人気の動画の一つだ。この動画で遊ばれているマリオは、もはや任天堂がリリースした『マリオ』そのものではない。多くの部分で『マリオ』の要素を借りてはいるが任天堂の『マリオ』には存在しないマップ、存在しない効果音などが様々に埋め込まれている。しかし、これは確かに『マリオ』として楽しまれている動画だ。これが『マリオ』であると認識するとき、『マリオ』であるとは一体どういうことを指しているのだろうか?
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