ラフカディオ・ハーンは著『神国日本』(一八八八年米国で出版し、日本では平凡社、一九七六年)から出版。その引用 356
・日本の教育は、見かけは西洋風でありながら、大体において、これまでも、また今でも、外見とは全く反対の方式に基いて行われているのである。その目的は、個人を。独歩の行動を出来るように鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練を施すことであった。我々西洋人の間では、強要抑圧は子供時代に始まり、その後徐々にゆるめられる。極東のこの国での強要抑圧は、もっと後になってから始められ、その後だんだん締めつけが強まってゆく。
・クラス生活の調整は、多数に対し一人が独裁力を振るうという事ではない。多数がひとりを支配していくというのが常道であり、-その支配力たりや実に強烈なものであるー意識的にしろ無意識的
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野党共闘実現なら、自民党の獲得議席は284ではなくて、221議席の推定。野党共闘壊した「前原氏の裏切り」が如何に大きい意味を持つか。衆議院選後、どう推移するか。民意、安倍首相不支持が底流に。
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野党共闘が出来れば、自民党は284議席の代わりに200-221議席。立憲民主党候補者の選挙区で共産党立候補降ろさなければ惨憺たる状況。共産は大義(安倍政権の議会完全制覇阻止)のため自己の利益(議席数拡大)を犠牲にしたと言える。共産と公明の差。
コメント
>>6
昨夜の生放送からも、もう日本人にはDNAレベルでドレイ根性が染付いているのかと思いたくもなりますが、
それよりは長らくの「生活習慣」に因る気がします。また、そこには上と下が結束することが滅多に無いことも含まれそうです。上と下は常に支配する側とされる側に分離しているでしょう。上が更に強力な敵と対峙する時、下と一丸になって闘うなど日本では まずあり得ず、上はカンタンに負けて「上級ドレイ」化してしまいます。
「本当に自由な人生」の素晴らしさを体感したことがない人だらけでは、この悪循環を断切るのは容易ではないとも思います。
長年歴史的に培われて来た「統治方法」の完成版です。この大前提は「誰が何を考え、いかに行動しているか」を個人レベルで把握されていることです。そして、それが組織員全員に周知され得る環境にあることです。また、その個人の考え、行動が組織全体の意に反する場合、絶対的な権力によって是正ないし、排除される条件になっていることです。いわゆる全体主義的なしくみが出来ていることです。日本では江戸時代からその土壌は培われています。
今、教育現場をよく問題にされますが、基本的な原型は社会の現場、すなわち職場にあります。「しっかりした企業」は、労務管理のプロと警察の天下りを職場管理に専念させています。社員は頭の片隅には必ず「会社は自分をどう見ているか?」「【誤解】されるようなことはないだろうか?」と言う意識を置いて仕事をしています。だから、自分の自覚的な意思だけでなく他動的な意思でも働き、過労死や鬱が続出しているのです。その実社会の反映が教育の世界でもあります。会社では、個性よりも強調性、教育現場では、団体行動重視。メデイアの芸人は「空気を読む」を暗黙の裡に重視します。
集団主義で得をするのは、一番上で命令っする人と、すぐ下で庶民を好きに動かす人です。あとは、強権を振るって協力する闇勢力です。もう、日本人も、この欺瞞的な”しかけ”に気付き、反撃を開始すべき時です。
なお、問1、2、3、4の回答は、NO2様と同じです。
『致知』十一月号を開いたら、あのシンクロの井村雅代コーチが、「一流は道を開き、二流は道を選び、三流は道に従う」といった趣旨のことを述べていた。たしかに、井村は「道を開いた」人だが、それゆえにある時期日本ではバッシングされた。それでも、変わらずに井村は井村で居続け、ついに、「日本」が井村に屈した。
実に、フェアな原理が機能したわけである。
孫崎さんは外交政策分野の一流の思想家として歴史にのこるだろう。
どんなに権力に弾圧されようと、それが一流のパワーであり、歴史の原理なのだから。
(ID:18367902)
戦後も過去のことになり、いつの間にか、戦後の教育評価「相対評価」が、戦前の教育評価「絶対評価」にかわってしまっている。
我々の受けた戦後の教育の学習の評価は、教師の主観性を排して客観的に行うため、戦前の絶対評価にかわって相対評価で評価された。正規分布に基づく機械的に5段階に割り当てられたと記憶している。
いつの時点からかわからないが、絶対評価を加味した相対評価になり、55年指導要録改定から、「観点別学習状況」の評価が絶対評価になり、平成13年から「評点」も絶対評価にかわった。
教師が、絶対者になり、生徒の自由な発言が規制され、行動も、衣服も規制の対象に移り、個人としての生き方が教育現場で排除されてきており、全体主義の素地が、固められてきたとみるべきでしょうか。