ビュロ菊だより

<菊地成孔の日記 2021年9月14日午後4時記す>

2021/09/16 22:30 投稿

コメント:26

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 curejazzの初日が終わり、2日目の本番前控え室で書いている。UAはメイク、ヘア、ファッションと一族郎党、7人ぐらい連れ込んでバンマス部屋を占拠しているので、僕はメンバー詰所を区切って第二簡易バンマス部屋を作ってもらい(頼んだわけではない。念の為)、でかいソファで横になれないので、椅子とかを巧みに使って、ソファ風にしているのだが、結局はただの長椅子なので、横になっても綱渡りのロープの上みたいだ。諦めてこれを書き始めた。

 

 とにかく眠くてしょうがない。今は「8~9時完全撤収、店の入りは1時」とかが普通なので、個人練習を1000回やってもそれは夜中の1時から6時まで、とかなので、それから風呂に入って、タバコを吸いながら頭を整理して、寝ると8時だ。長沼の迎えが12時半にくる。サウンドチェックから終焉まで、基本的に眠い。もう国への嫌がらせに、緊自宣下ではライブはやめようかと思う。あるいは、ヒロポンをもう一度合法にしてもらうか、あるいはステージ上全体に布団が敷いてあって、ゴロゴロ寝るだけの現代音楽のライブならやりたい。寝返りを打つ音とかを観客に聞かせてお金を取るのだ。くたった演奏はしない。ベートーヴェンの第九とかをやる。ゴロゴロ寝ながら。

 

 いきなり話が変わる。昨日、新宿駅南口まで散歩したら、ルミネの看板に「先の見えない時代だからって、恋することを諦めちゃダメだ」と書いてあって、久しぶりで苦笑らしい苦笑をした。

 

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コメント

userPhoto 菊地成孔
(著者)

>>21

<そして山田氏は非常にジャズマナーですね。どうしても菊地さんの世代には、藤井さん、外山さん、吉垣さん、そして四番サード大儀見さんがいらっしゃるので、どうしても彼らの亡霊が離れずにいます。ですが、山田さん、素晴らしいですね。>

 この点でのご指摘も嬉しいです!山田くんは、藤井、外山、吉垣、大儀見という僕の中の縦線よりも、石若俊、秋元修と言った若手の凄腕ドラマーとの水平線で見た方がジャズマナーが明確になると思います。みんなスキリングは同じぐらいですけど、山田くんは圧倒的に、どんな現代的なハイスキルを使っても、音色もグルーヴもオーラも完全なモダンジャズサウンドで、「その気になれば人力ドラムンベースも叩ける」「とかいった、いわば浮気をしません。そこが素晴らしいですね。アフロアメリカンでも、ここまで「ジャズ臭さ」を残している俊英はいないので(珠也もそうなんですが、もう若手ではないので)、「ブラックレイディオ」以降のコンテンポラリードラマーとしては異形とまで言って良いと思います。キュアジャズの若返りに際して、林、鳥越はスキル的にも人脈的にも穏当な選択でしたが、僕が真っ先に指名したのは「山田くんのスケジュールが取れるか?」ということでした。


No.25 36ヶ月前

非常に示唆的なご返信ありがとうございます。いろいろと考えが膨らみスリリングさを感じます。

DC/PRGの911の再現度は非常に高かったと、解散を経て、改めて感じております。それは20年越しに感じるところであります。というよりも、ガッチリとあの事件とあの運動体が、しっかりと噛み合ったことは時代の要請でもあり、それを察知しておられた発明者としての鼻の良さであることは言うまでもありません。そして、解散後の菊地さんの、それぞれの活動を見る度に、あの夜のことが思い返されるのです、そしてそれは懐古趣味ということでなく、様々な活動を貫いているものだからということで理解しております

実際に事件は起こり、運動体は運動を続けたわけなので。

また返信に書かれた山田氏のスケジュールを一番に抑えたというところも、非常に興味深いと思いました。運動体のエンジンとなるところにジャズマナーである山田氏をという点に、現在地が現れていると感じます。大西さんが、カルテットに大儀見さんを招聘している点を含めて興味深く見ています。(私も、アフロアメリカンでもジャズマナーは少ないと感じます。)

そして、そのようなことが、僕の感じる、外国人の仕事であると考えております。それは、恣意的にも無意識的にも行われるものですが、抑圧の一歩外にいるというのは、とても貴重な立場であることは言うまでもありません。(間接的に当事者でないという人は、すべてのものごとにおいて存在し難くなっていることは特に指摘するまでもないとは思いますが、念のため)

その上で、現在、戦場と呼べるものがどこに存在するかということに目を向けると、アラブ世界の辺境と中心部、そしてやはりラテンアメリカの、特にパナマ以北に生じております。一つは対外的な戦闘から生じた戦争であり、もう一つは国が抱える闇が噴出した内戦です。物理的に圧倒的な数の死者を出しているラテンアメリカ地区は既にアラブ世界での戦闘の死者数を年間で上まり、それがあまり世に出ないのは、単にシリアよりも当国での記者が死にまくっている現状からに他なりません。
アラブ系の現状や発出される映画やドラマを見ながら思うのは、迫る暴力の目盛りと匂いが、うちと近いな、ということです。たとえば、拷問の仕方がそっくりですね。どちらも引用元が一緒なので。そして、ある一定のレベルで暴力性を越えた地区が持つ、空間の歪みですね。天然だらけです。
そういう意味で、現在、暴力の表出を行うフラッグを勝ち得ている特殊な2地域のように思います。

そして、その2地域を貫くのが、征服と被征服の関係性(もしラテンアメリカがアラブ世界を征服すれば円環は一度閉じます)。そして、アメリカ合衆国を真ん中に据えた、抑圧と被抑圧の関係性です。

既に当国の国境の町には、イスラムの基地が建設されております。歴史が大きな大局に向かう準備は整っているのかもしれません。

アメリカ世界とアラブ世界がシェイクハンドする世界が、どのように来るのか。その世界にどんな運動体が登場するのか、楽しみでなりません。生きていたら、見届けたいものです。

今後のご活躍、心より期待しております。

No.26 36ヶ月前
userPhoto 菊地成孔
(著者)

>>26

日本人が「戦争」に対するイマジネーションを(例えば「死」そのもの、と比べた時に)、著しく低くしか持てない。というのは、国民的な抑圧で、原爆投下も関わっているでしょうし、太平洋戦争の敗戦(近代日本軍、初の敗戦)も関わっているでしょうし、何よりも「恒久の平和」が、スローガンを超えて、行動も超えて、体質化しているからだと思うんですよ。

 僕はDC/PRGという運動体を、まだ「音楽のバンドである」という文脈でしか理解されていない(それは「無理解」ではなく、「音楽のバンド」としては、本当に、運動開始当時に比べると、信じがたいほど理解されていると思います)、と感じており、しかしそれは「戦争」を概念化して音楽という活動に結びつける、ということ自体が、僕の個人的な狂気なのかも?と思うほどです。片山杜秀の「戦争と音楽」は、非常に優れた本で、後期バロックから3B時代までと、クラシックの美味しい時期だけを中心にしているとは言え、結論は「戦争が音楽を(不可避的に)産み育てる」というもので、掉尾は「戦争を!」と、好戦の拳を突き上げています(「音楽のために」ですが)。

 ただこれも、戦争を抽象化=再理解し、音楽の抽象性と同一化させる。という僕のコンセプトとは違い、かなりドラスティックなものです。「スペインの宇宙食」は僕の著作の中でも、未だに一番読まれているのではないか?と思うほど読まれていますが、まだDC/PRGの件は読み込まれ切ってはいないな。と感じています。ダンスは快楽で、戦争は怖い。なので戦場に置かれるまでは踊っていようよ。というシンプルな快楽主義みたいに捉えられているだろうし、冒頭に戻り、日本人には(良くも悪くも)無理だろうな。と、最近は思っています。エモーションを排除し、アクションに純化する(せざるを得ない)というのは、マルクス主義をコンセプトにした革命運動でも無理だったと思っています。

 ご説にある、「パナマ以北」つまり、お住まいであるメヒコの南(こうした世界地図俯瞰も、なかなか読者には伝わりずらいと思いますが)で、南北アメリカの臍の緒であるコスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラ、(ベリーズも、内情はさておき、地理的にくくると)といった地域の治安の、驚くべき悪さが、これだけSNSが発達しているのにも関わらず、ほとんどリアルが海外に届いていない。というのは、おっしゃる通り、ジャーナリストの死亡率が高い。という事も筆頭に、ヒップホップのカルチャーが無い(必要ない)こともあげられると思います。

 <G-RAPの情報>として、00年代のシカゴが、年間の死亡者数を当時(戦時)のイラクを上回り、ストリートの地獄としての「シャイラク(シカゴ+イラク)」という言葉が生まれた。という過去は、シカゴが、実は全米で最も最新型音楽の多産地域であり、HH東西戦争のかなり後にシカゴにG-RAPが生まれ直したという状況の下にあり、過去(かなり前ですが)僕は「フォークは自殺用、ラテンは他殺用」と発言し、さほどの反響はありませんでしたが笑、ラテンミュージックは、どこからどう分析しても他殺用に構造が出来上がっており、それは今なら「紅茶は自殺用、コーヒーは他殺用」と言い換えても良いかもしれません。僕は「ラティーナ」という音楽誌が達成した仕事を、かなりの精度で評価していますが、ラテン音楽を積極的にロンダリングしようという方向性に関しては、仕方がないとはいえ、悪しき傾向だと思っていました。

 何名かいるスパニッシュアメリカンの友人(音楽家が多いですが)は皆、ジョークとして「ホンジュラスだけは別格だ笑。どんな酷いか知りたくもない笑」と言います。南北米の臍の緒にいる人々にとって、戦争と音楽とは何だろうかと思いをはせるに、「日常」と把握している以外、イマジネイトできません。誰かの日常を客観視し、何らかの形に移し変えることが出来るのは外人以外にはないでしょう。

 しかし拷問も射殺も、外国人が、例えば「映画」とうメディアに移し替えると、観ていてかなりヒヤヒヤします。先日書いた「モーリタニアン」はかろうじてイギリス映画で、イギリスがアメリカの悪を暴くのに、当然のように拷問シーンが出てきますが、端的にそれは、「これ、フェチに火がついちゃうやつもいる。というリスクがあるよな」と感じざるを得ません。「映画」はもう、リアルな暴力を描くメディアではなくなっていると思います。

 <アメリカ世界とアラブ世界がシェイクハンドする世界が、どのように来るのか。その世界にどんな運動体が登場するのか、楽しみでなりません。生きていたら、見届けたいものです。>

 僕も全く同意します。そして、中華人民共和国とアラブ社会の連合と、合衆国がリベラルの旗の元に同盟関係を強化する。という、過去の「世界大戦」の座組にどんどん近ずいている社会に向け、僕はDC/PRGのアクションを終了させた後、修正的/ 発展的に次のアクションに移ろうとしており、それはDC/PRGが予め下部構造に持っていた「1999年から2001年までの日本人が、戦争=戦場のイマジネーションを持つに至るかどうか」という、一数の抵抗値を取り直すことに他なりません。

No.27 36ヶ月前
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