こんなにライブが飛んでいるのに何故こんなに小忙しいのであろうか。毎日「あれをしなきゃ、これをしなきゃ」と思っている間に、田村正和がなくなったり、星野源が結婚している。田村正和については「ユングのサウンドトラック」に、星野源については「次の東京オリンピック」に書いてあるが、推測するに、今エゴサをしたら、星野源についてはあの記事が出てくるだろうが、田村正和については出てこないだろう。ネットに連載していなかったからである。今はネットに書いたことだけが発言になる。書籍は何のためにあるのか、自己沈潜の最初のツールである書籍は、きっと近い将来、古文書のようになり、ある特殊な趣味と教養を持った人々の物になるだろう。ルアーフィッシングのように。
「喫煙可能(できれば全席)の喫茶店を探すのが趣味みたいになっている。今は神保町の喫茶店にいるが、アールグレイのアイスが無茶苦茶にうまい。一番美味いかもしれない。あまりの美味さにストローを使わないで飲んでいる。
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>>17
台詞が全てではありませんが、台詞が世界の仕組みの一端を示すことが出来る、そんなことを思いました。会話ではない、台詞のやり取りに、いかようにも発生してくるドラマの生々しい姿がありました。
↑ 従来コレは、演劇が担う役割だったんですが、今は新しい演劇が余りにも実験的すぎるか、余りにもエンタメすぎるかで、演劇が本来持っていた力は、映画に流れたり、漫画に流れたりしていると思います。
当国のシネテカに愛されているホンサンス、最新作までほぼ全ての作品を上映しております。
↑ 驚きました
ため息が出るような出来の各作品、驚くべきは、毎回毎回、自作を更新していっているという化け物感。
↑ 本当ですよね。でも、もっと恐ろしいのは、レトロスペクティブで見ると、均質感もあることです。
番組中に出されたシーン、ホンサンスの映画済みであれば、どんなカメラ位置なのか想像に容易く。あのズームワークも。ペン大の授業中のやり取り、私はどんな教室なのか知りませんが、一度ズームインしてから、ズームアウトしました。コンビニからパンを買って出たところでも、一度、ズームインしました。キクチニナルヨがパンを囓ってました。
↑ ホン・サンスはあの「異様なズーム」を、「性別を取り去るためだ」と言っています。大変びっくりしました。
いかにナルコを抜くのか。あの強烈な、ドラマツルギーの権化のような存在を。それは平行世界としての、暴力の存在しない、南の合衆国。平和ボケしたラテンアメリカは可能なのか。
↑ 北米も平和ボケしてないですからね笑。「平和ボケ」は、意外と世界的に貴重な状況かもしれない、と思っています。
68年の当地のオリンピックは、様々な理由により、10月に開催され、その一週間ほど前に学生や運動に参加した人々が集合住宅の広場に集まり、沢山、殺されました。悪い奴らがいます。今後の何かの参考になれば幸いです。市川崑の撮った東京オリンピックが何かを映したように、Isaacの撮った68年のオリンピック映像にも何かが映り込んでいます。
↑ いやあ、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(著者)
>>18
寺門ジモンいますね!笑 気づいてませんでした笑
↑ 僕も、おたけが上島竜兵だと気がつくまで気がつきませんでした笑
菊地さんがハッピーアワー論で書かれていた第三リアルという概念、濱口監督に関する情報が無いまま書かれたかと思いますが、のちに監督のインタビュー等を読んだところ、かなり意識的にやられていたことが分かってきて、
↑ 僕も読みました。「そうだろうな」と云う感じでした。
その後の作品に物凄く期待していたのですが、個人的には『寝ても覚めても』ではあの第三リアルの感覚が消えてしまっているように感じました。単純にドキュメンタリー色が薄い、ということかとも思いますが。
↑ 多くのシネフィルが感じていることではないかと思います。とまれ蓮實先生が激賛していたり、受賞があったりして、何れにせよ評価の分かれる作品だと思いますね。
蓮實さんがホン・サンスについて「作品全体としてどうかというと疑問を禁じえません」と書かれていたことと、『寝ても覚めても』を高く評価されていたことと、今回のラジオデイズと、菊地さんがMCU論で書かれていた「2キャ経」という概念を考え合わせると、映画というものの面白さの分岐点に来ているような気になってきます(「2キャ経」という概念は、その頃、すごく観たいと思える現行の映画がマーベルものかホン・サンスか濱口監督の作品くらいしかなく、市民がネットで批評を投稿し続け、権威側の映画批評がほとんど面白いと思えなくなっていた私にとって、なるほど、これは凄い概念だ!と、とても腹に落ちるものでした)。
↑ ありがとうございます!映画の面白さ、は確かに分岐点にありますし、この時期の分岐は、とはいえいつかの分岐の孫、と云うか、リュミエールかエジソンか。と云う原点からはまだ完全には出ていない反復で、僕はスマホというのは、ハンディキャメラとテレビ受像機とラジオ受信機を一緒にして、さらに数億倍化した、「ものすごいキャメラ」だと思っているので、これは8ミリカメラが出た時の状態を反復すると思っています。
ライジオデイズで知って藤井風さんのYouTubeを見てハマりましたが(マライヤキャリーのカバー、凄いですね)、あれには、藤井さんのキャラもありつつ(よく知らなくてもだんだん分かってくる感じ)、あの画質や音質、電子ピアノの感じ、手の動き、部屋の置物等々から醸し出されるなんとも言いようのない面白さから、次々と見てしまうという意味で、市民レベルの第三リアルが2キャ経へ合流していく流れを感じました。
↑ 仰る通りですね。藤井風は「渡米経験がないのに、レコードから英語を覚えた」、古くも新しい人物として注目しています。武道館ライブの最初のMCは、流暢な英語なので笑。
今回の自然主義カメラによる第三リアルの創造というテーマは、菊地さんがハッピーアワー論のワークショップシーンの分析で着目したような面白さとほとんど同じものだと思いますが、そこに2キャ経的な価値体系が合わさったときに、蓮實さんが言われるのとは違う意味で、作品として面白い、という感覚を生むのかもしれず、そのことと、蓮實さんが2キャ経的なものにあまり興味がなさそうなこと(蓮實さんについてそれほど詳しいわけではないので勝手な想像ですが)は関係があるのかもしれない、と思ったりしました。
↑ そうですね。蓮實先生がホン・サンスを「面白いかどうか」で判断する感覚は、「ヌーヴェルバーグ受容第一世代」と考えれば、非常によくわかりますが、蓮實先生は、それと「ミュージカル好き」が、一種のダブルスタンダードになっているので、そこでの捻じれが生じていると僕は思います。ですので、その捻じれすら突破する作品が待たれますね。
ちなみに、菊地さんがMCU論の最後に書かれていた2キャ経の飽和状態から望まれていた国家の介入というのが、結果的にはコロナに伴う国家的な施策だったとも言えると思いますし、それによって前衛映画の側寄りの第三リアルというものの価値が高まりやすい状況になったような気もしています。『ビーチバム』は凄く良かったですが、そういった状況とも関係があるのかなと思います。
↑ 「ビーチバム」はやはり異様な映画で、童話などが持っている、過去のプログラムピクチュアが持っている、現実界の濾過を通っているので、あれを正面からリアルと結びつけるのは、「若大将シリーズ」を正面から現実と結びつけるようなものだと思っています。しかし、ハーモニーコリンの「作家性」が強すぎ、多くの批評家が「あれはアーティストが作った、インディーのプログラムピクチュア」と把握しなかったことは仕方ないと思います。
佐藤兄弟、私の検索能力が低いのか、検索しても全く情報が見つかりませんでしたが、ぜひ観てみたいと思いました!
映画評論家の相田さんというのは、相田冬二さんという方のことでしょうか?
↑ そうです。ただ、僕の伝言ゲームに関してはm kさんのご指摘通りです笑
(ID:118465634)
ナルズ書;2冊目「ユングのサウンドトラック」3冊目は、「次の東京オリンピック」を読みたいと思います。
1冊目の「レクイエムの名手」は、成孔さんの音楽・人と繋がるそのコミュニケーションが一見ラフなるも深く、そこから新しい何かを発見し続けていく人なんだろうな・・という印象でした。
今日は、6/5-6。NHK/bsp、(渡辺貞夫さん) (Mr.ロン・カーター) ニューヨーク・ブルーノートでのジャズ特集、神の手神の音~~~で眠気ぶっ飛びました・・
特にアーティストの指先、賛嘆です。
渡辺貞夫さんのライブメンバーで、テクニックひけらかさないCOOLなドラマーの竹村一哲さんは、目付きが鋭くて強面な方かと思いきや、ご本人Twitterのいいね、がモフモフの動物シリーズだったりするので、ギャップが何とも良い感じしてます。
つい、さきほどはUKTVで、キキ・ディーがソロで歌ってたりして懐かし。
日記の中で、いくら名前が「聖地巡礼」に似てるからって・・の下り、不謹慎ですがめっちゃ受けてしまいました。確かに似ている、文字の形。五輪投地して辿り着いた者には、飾られたサイン色紙にもれなく肖れたりするとかないですかね、なんて、、シュール越えて失敬ですね、すみません。
7月にある成孔さんのライブは、これまた初めて聴くsideなので、楽しみです。