サイボーグ化する身体と社会
――〈人間〉はいかに
拡張し得るのか(後編)
井上明人×稲見昌彦×
山浦博志×小笠原治×宇野常寛
――〈人間〉はいかに
拡張し得るのか(後編)
井上明人×稲見昌彦×
山浦博志×小笠原治×宇野常寛
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.6.18 vol.347
本日は、『PLANETS vol.9』刊行記念イベント「サイボーグ化する身体と社会」の内容の後編をお届けします。サイボーグ的な義肢装具が普及することで社会制度や、私達の「人間観」はどう変わるのか――? 前編では義肢装具開発や光学迷彩研究、ゲームデザインなど様々な立場から議論しましたが、後編はさらに掘り下げて「サイボーグ化時代に人間の美意識はどう変わるのか?」について考えました。
前編はこちらから。
■ 「人々がフェアだと感じられる楽しいゲーム=社会」をどう設計するのか
宇野 『PLANETS vol.9』で僕らは、井上くんを中心にいろんなプランを考え、いろんなところに取材に行きました。そこで思ったのは、handiiiのように「高い技術による義肢装具を作っていく」のももちろん大事なんだけれど、それと同じぐらい「多様化する身体を受け入れられる社会のルールを整備する」ということについてしっかりと考えなければならいということだったんです。
近代スポーツがそうですが、現代社会のルールってどこかで「健康な成人男性」を標準にしているんですよね。実はこれは民主主義にも同じようなことが言えて、「教育を通過した人間にはある程度の判断力が宿る」という幻想をもとにして動いているんです。その幻想をみなが共有していたから、何となく世の中がフェアに回っていると思っていた。
でも今はその幻想が壊れつつあるわけですよね。「健康な成人男性」中心主義はマイノリティを抑圧してしまうし、「意識の高い市民」を前提にした民主主義はこの規模と複雑さをもつ社会に対応できなくなってきている。そのときに、どういったルールであれば人々に納得感を与えることができるのか――そういった議論を、僕らはこの本のなかでずっとしているんです。
井上くんは、自分が関わってないページも含めて、この本のなかの議論を読んでどんなことを思いましたか?
井上 僕が直接関わってないページで「おぉー!」と思ったのは、実際のパラリンピックの選手のインタビューですね。僕自身の原稿で「パラリンピックではこういう問題が起こっている」という話をしているんですが、どういう問題かというと「クラス分けを雑にしてしまうと、不利益を被る選手がたくさん出てきてしまう」という話だったんです。インタビューのなかでパラリンピックの選手の皆さんは、このこと問題について競技者として深く認識しつつも、それでも受け入れざるを得ないという話をしていて、すごく複雑な気持ちになりました。「その不平等を受け入れる事がリアリストなんだ」、というような認識が出てきてしまっているわけです。
「良くない」と思っていてもそれを受け入れざるを得ないのはなぜかというと、その摩擦を調整する仕組みを動かす人が、現時点ではまだあまりいないからだと思います。このままだと不平等な状態がリアリズムによって維持されるという逆説的な状態が続いていってしまうので、『PLANETS』みたいな雑誌で新しい法則を打ち立てることを、とにかく何度もやっていくことが重要だと改めて思いましたね。
小笠原 要するに「諦め」の境地に至ってしまっているわけですよね。でも一方で、義手はその「諦め」を無くすために作っていたりするわけですよね。諦める人がいるから逆に諦めない人も生まれる、そういうバランスもあると思うんですが、どうなんでしょうね。
宇野 これは「フェアである」ことと「フェアと感じられる」ことの差の問題だと思います。人間が幸福だと思えるために必要なのは後者なんですよ。
本当にフェアなゲームというのは、強い奴が勝ってしまう。それだとみんな嫌なんです。ゲームのルールって、裏技があったり運に左右される要素が多いほうが人々はフェアだと感じるし、もっと言うと幸福だと思えるわけですよね。現代の社会は残念ながら三歩手前くらいにいて、スポーツでいえば健康な成人男性以外はマイノリティとして不利になってしまう。
これはスポーツだけではなく社会そのものにも当てはまる。仮に今日山浦さんや稲見先生が仰ってるようなサイボーグ化が身体的な条件を覆す――少なくともハンディキャップが単なる不利な条件ではなく、個性になるレベルまでは行ったとしたとき、その上で人々がフェアだと感じられる楽しいゲーム、面白いゲーム、やり甲斐を感じるゲーム=社会をどう設計するのか、という問題が浮上するのだと思うんです。
この問題に対する井上くんの今回の本での回答は、「集団戦にすることによって運の要素を拡大すると皆フェアに感じやすいですよ!」ということだったと思います。この件に関して、他の三人がどう思うか聞いてみたい。稲見先生どうですか?
稲見 まず、強い人が勝ってしまう、戦う前から結果が見えてしまうのはゲームをする意味がない、というのはその通りだと思います。何か不確定な要素を残しておくことが良いゲームデザインだと率直に思いますね。
先日、「リアリティってなんだろう?」という話になって、色んなリアリティの考え方の一つとして、「パーフェクトじゃないものがリアリティかもしれない」という話をしました。つまりアイディアルな平面や直線は現実世界には存在しないわけじゃないですか。パーフェクトに予測された通りにならない部分を残しておくこと自体を、我々はリアルだと感じるのかもしれない。その部分では井上案に賛成します。
また、そこまで制度を頑張って考えなくてはいけないのは移行期だからですよね。なぜならパラリンピックで「近視部門」なんてないわけでしょう。たとえば今日、この会場に来ている人で近視で眼鏡をかけている人はマジョリティですよね。
宇野 そうですね。この場は圧倒的に眼鏡が多いですね。
稲見 私はもともと小学生のときは宇宙飛行士になりたかったんですが、当時のスペースシャトルに関する本には「視力の悪い人は宇宙飛行士になれない」と書いてあって、諦めたんです。
でも眼鏡やコンタクトが普通に存在する現代のスポーツでは、決して何か諦める必要はないですし、眼鏡をかけるようになったから別のカテゴリーでスポーツをやらないといけないということもありません。つまりサイボーグ技術や義手義足の技術がきちんと実装されたときには、眼鏡と同じぐらいの扱いになるべきですし、コンタクトレンズぐらいになった時に我々はそんな区別は気にしなくなるものだと思います。
逆に言うと「眼鏡のためのスポーツ」が作られてきたわけではありませんし、「眼鏡をかけている人のための社会制度変革」も今まで行われてきませんでした。そう思うと私はあまり心配しなくてもいいのかなと、楽観的に考えています。
山浦 総得点方式などの競い方をしたらいいんじゃないか、という提案についてですけど、私が義手を作っていてよく思うのが本当に義手義足ってパラメーターの振り分けだと思うんですよ。とにかく力が強い義手というだけなら、ただただ重いモーターを積めばできるんですけど、そうすると持続時間が短くなる。逆にただ持続時間の長い義手にすると力も弱くなる。そのトレードオフがあるんです。だから開発する上ではそのパラメーターの振り分けがキモになってくる。
何かを競うときに、総得点方式にしてパラメーターの振り分けの上手さを競うというのは見ていても面白いと思うんですね。そういう意味で義手義足を使う人と、そうじゃない人も含めて競うという形はすごくアリですし、私自身、面白いなと思いました。
小笠原 僕は「強い奴が勝つ」というのは、強くなるところまでがその人の努力であるということも含めてルールだと思っていて、その代替手段として例えば違う道具を使うというのはいいかもしれない。
一方で、総得点方式はゲームとして面白いですけど、ルールに慣れてしまうと攻略法やパラメーターの振り分けの話だけにフォーカスしてしまう気がしていて、僕はそんなに長く楽しみにくいかなと思ってしまいましたね。
宇野 つまり集団戦にするところまでは良いんだけれど、総得点方式のようなやり方でいくと意外と早くハックの方法が分かってしまって、ヌルゲーと化すんじゃないか、という疑問ですね。井上くんはお三方の反応を見てどう思いました?
井上 小笠原さんの「ハックしやすそうだな」という話は最初のざっくりとしたルール案を作って当てはめた段階では、その通りだと思うんです。ただ、将棋などが典型的ですが、対人のルールの面白さは千年ぐらいかけて少しづつルールを修正しながら進化していくものです。「ズルされてつまんなくなる部分をもっているけど基本構成はすごくいいよね」という人が一定数いたら、どんどん修正パッチが作られてルールが洗練されていくと思うんですね。修正パッチを入れていく構造みたいなものまで含めて作れたら、そこで初めて成功だと言えるんだろうと思っています。
山浦さんには基本構想に同意していただけたので、是非何か一緒に考えていければいいなと。稲見先生の眼鏡の話がありましたけれど、半分はおっしゃる通りだと感じました。ただ、眼鏡の基本的なコンセプトって、「普通の人よりも目がよく見えるようになる」道具ではなく、「普通の人のように目が見えるようになる」道具だと思うんです。その眼鏡が例えば、「この眼鏡を付けると透視能力が発現する」となってしまうとまた話が違ってしまうのかなと。
稲見 最近コンタクトレンズ型デバイスで、ウィンクするとズームと普通とを切り替えられるのが出てきましたよね。市販はされていませんが、研究としては出始めています。
井上 あ、そうなんですか! ではその望遠鏡レベルの機能が付いたコンタクトや眼鏡が社会に普及して、普通に歩いている人が「実は500m先のマンションで何のテレビ見てるとかもう丸見えです」というような状態になってきたら、それは法制度なりの規制を入れなきゃいけないと思うんですね。現在の眼鏡と同様に上手く調和できれば話は早いと思うんですけど、オーバーテクノロジーつまり普通の人のさらに先を行ってしまったときにどうするかという問題が生まれます。社会的な身体ということで宇野さんが整理してくれましたが、そこで単に物理ではないところで対応していかなければいけないのかなという風に思いますね。
■ 稲見昌彦は、超身体を活用する為の脱身体をどう位置付けているのか?
宇野 何となく対立点が明らかになってきたと思います。この五人の中では僕と井上君が、どちらかというとエンターテインメント的な考え方をしていますね。人々が幸福になるため、あるいは面白く参加するためにはゲームに運や偶然性の要素が大きく作用している必要がある。人々は単にフェアなだけでは参加してくれない、「フェアに思える」ということが大事なんだという発想をもっている。これはゲームデザイナー的な発想ですね。
それに対してお三方、特に稲見さんや小笠原さんは、そんな単純な立場ではないことを承知で大雑把に言うと「そんなものはテクノロジーの進歩で基本的に打ち砕くことができるのだ」という立場ではないかと思います。稲見さんの冒頭のプレゼンの中で人間の身体の拡張のマップがありましたね。
これって要するに、超身体と脱身体の関係の問題だと僕は思っているんです。要するに、僕や井上くんはゲームデザインの思想を背景に、超身体を社会が受容するためには脱身体のレベルにフォーカスした社会設計が必要だと考えていることになる。
だから僕がここで聞きたいのは「稲見昌彦は超身体を活用するための脱身体をどう位置付けているのか?」ということなんです。
稲見 たしかに、現代は〈脱身体〉の時代という言い方をしますが、今の技術レベルで実現できるオンライン上の身体ってまだそこまで発達しきっていないと思っていて、そういう脱身体的なテクノロジーが進化する前に、物理的な身体のほうを拡張しておこうという発想です。
オンラインでアバターを使っているよりも物理的な身体のほうが楽しくなるのであれば、わざわざオンラインに行かなくてもいいわけじゃないですか。肉体だと食べ物も美味しいですし。『マトリックス』にも食べ物のシーンが出てきますが、それは大切なことです。そういう段階を経た後に、最終的に行くのが「分身体」「融身体」かなと思っています。ですから、いま私がやっているのはもしかすると「いったん脱身体から超身体に戻す」という作業なのかもしれません。
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