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ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、コミュニケーションについて独特の理論を展開したグレゴリー・ベイトソンの議論を、「共同注意」の概念を手がかりに、命令的/叙述的という分類から、「ゲーム」と「遊び」の差異について検討します。
※本記事に一部、誤記があったため修正し再配信いたしました。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。【12月11日18:30訂正】

4 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー

4.1行為と、行為を思惟するシステム

ベイトソンの「メタメッセージ」

 ようやく長かった第三章を抜け、第四章に入っていきたいと思う。
 予告どおり、まずはコミュニケーションと遊びをめぐる問題を扱っていきたい。遊びやゲームにとってコミュニケーションという要素がかなり重要な一側面をなしているのは間違いない。カイヨワなどは、すべての遊びの動機はコミュニケーションであり、それこそが遊びにとっての欠くことのできない本質なのだとすら論じている[1]。カイヨワの議論に賛同するかどうかはともかくとしても[2]、コミュニケーションが重要な要素であることには違いない。
 そして、遊びとコミュニケーションの関係を論じるにあたって、まず挙げなければいけないのは、グレゴリー・ベイトソンによる議論だろう。これは、遊びをめぐる最重要の議論の一つと言っていい。
 ベイトソンといえば、哲学文脈以外でも、精神医学や社会学では「ダブル・バインド」の議論がよく参照され[3]、経営学などでも独自の「学習」概念が引き合いに出される。ベイトソンに関わる議論のなかでも遊びに関わる重要な論文は、一九五三年に出された「ゲームすること、マジメであること」[4]と、一九五四「遊びと空想の理論」[5]の二編があるが、とりわけ重要なのは「メタ・コミュニケーション」をめぐる議論だ。
 ベイトソンによれば、遊びとは「今やっているこれらの行為は、それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」[6]ようなものだという。何か非常にややこしいことを言っているように聞こえるだろうし、実際に文章にするとややこしいのだが、実際に我々が何かを遊ぼうとするほとんどの場合に起こっていることだ。ベイトソンによる、このややこしい定義は彼が動物園に行ったときに見た次のような観察から出てきたものだ。[7]

私が動物園で目にしたこと、それは、誰にも見慣れた光景だった。子ザルが二匹じゃれて遊んでいた――二匹の間で交わされる個々の行為やシグナルが、闘いの中で交わされるものに似て非なる、そういう相互作用を行なっていた――のである。このシークェンスが全体として闘いでないということは、人間の観察者にも確実に知れたし、当のサルにとってそれが「闘いならざる」なにかだということも、人間観察者に確実に知れた。

 子ザル同士が遊ぶとき、相手に噛みついて遊んだりする。そのとき「物理的には」間違いなく噛み付いているが、子ザル同士の「意図として」本気で相手の肉体を破壊することを意図しての噛み付きが行われるわけではない。すなわち、「『咬みつきっこ』は『噛みつき』を表わすが、『噛みつき』が表わすところのものは表わさない」[8]
 このとき、物理的に噛み付くという事態と、遊びで噛み付いてみせるという事態を区別することのできない動物は、ここでいう意味で「遊ぶ」ことはできない。「これは遊びなのだ」という行為事態を意味づけるメタなメッセージを交換できない動物には「攻撃的な意図で噛みつかれたこと」とそうでないことに差がなくなってしまう。攻撃されたら、それは攻撃なのだということしか考えない生き物は、闘争するか逃げるかといったことを選びとるしかなくなっていく。コミュニケーション行為のカテゴリーを複層化できないというのは、いかにも不自由な生き物だ。
 遊びが成立するには状況解釈の多層的理解が前提となる、というベイトソンのこの指摘は遊びとコミュニケーションの関係を考える上で極めて重要な指摘である。これは人間の複数人遊びでは間違いなく生じることだ。このメタ・メッセージを理屈では理解できても、心情的にはどうもまだ納得しきれないような幼子はゲームに負けたときに癇癪を起こすことがある。小さな子どものときに、ゲームに負けて泣いたり、怒ったりしたことのある人は多いだろうし、子どもとゲームをした後に本気で怒られたりして困ったことのある人も多いだろう。[9]
 こうした多重のリアリティ解釈と遊戯が深く結びついているという観察は、その後も、いくつかの系譜で参照されながら議論されることになった。代表的なものを挙げるならば、アーヴィン・ゴフマン[10]やゲイリー・アラン・ファイン[11]による遊戯やゲームをめぐる議論はベイトソンの強い影響下にある。
 そしてベイトソンは「それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」というような言い方は、ラッセルの<論理階層>の理論[12]では端的に禁止されるべきものであるともいう。「表す」(denote)という言葉が別々の水準の抽象性で現れているにもかかわらず、それが同義として現れている。これはいかにも論理エラーを引き起こしそうなややこしい仕組みだ。では、論理エラーを引き起こしそうな仕組みであるにも関わらず、なぜ人類をはじめとする哺乳類はこうした屈折した構造をもつ「遊び」に関わっているのか。ベイトソンによれば、それは論理学的な"正しさ"には合致していないが、それは哺乳類の進化が論理学のそれとは別の仕組みで成立してきたからではないか、という。

ジョイント・アテンション

 動物や人間の心理発達プロセスという観点から、遊びというようなメタメッセージを含んだ構造について考えようという話を、現代的な概念に変換しようとするのであれば共同注意(Joint Attention)や、心の理論をめぐる議論から改めてベイトソンの議論を考え直すことが可能だろう。
 共同注意とは、その名の通り他者との間で同じ対象について注意を共有しているかどうかを問うもの[13]で、心の理論(Theory of Mind)とは、他者が自分と同様の心の状態をもっているという推測をすることが可能かどうかということを問うものだ。いずれも幼児の心理発達の過程や、人間とサルの心のシステムの違いを論じる際にしばしば問題になる。
 共同注意の概念は、1975年にスカイフとブルーナーの研究[14]により知られるようになり、心の理論は1978年にプレマックらの研究[15]により知られるようになったものだ。近年ではマイケル・トマセロ[16]や、バロン・コーエンなどによる研究が注目を集めている。彼らの論じるところによれば、親と子供との注意対象の共有などが次第に発展する共同注意のプロセスの先に、「他者に心がある」ということを理解するいわゆる心の理論(Theory Of Mind)ができあがってくるという。「他者に心があるということを推測する」というかなり高度でわかりにくいメカニズムを、共同注意という観察可能でわかりやすいものによって説明するという仮説は大胆で興味深いものだ。
 ただ、共同注意がより現代的な概念であると述べた理由は、単に注目が集まっているというだけでなく、概念区分が細かくなされ各種の実験と紐づく形で実証的な形で研究が展開されていることによる。心の理論などと併せ、共同注意の発達プロセスは発達心理学における基盤的な論点を扱っている。
 この共同注意や心の理論といった概念的な道具立ては、ベイトソンの現代的解釈をするうえでも、ゲームの概念について論じていく上でもかなり重要な論点を含んでいる。


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