ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。「キノコで巨大化」「人の家のタンスを開ける」など、「メカニクス」と「表象」がしばしば乖離するゲームの世界。今回は番外編として、『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』の話題を中心に、「いい加減なプレイヤー」をめぐる問について考えます。
(今回は、番外編としてDQ11の話をメインにさせていただきます)
3DS版『ドラゴンクエストXI』(以下DQ11)をクリアーした。クリアー後のアレはもちろんのこと、時渡りの迷宮も最後まで終えた。
そういうわけで、いまDQ11について書かなければ、たぶん次に書く機会というのはないだろうと思うのでDQ11の話をメインに書かせていただく。とくに「ゲームとは何か」に関わる論点として、今作は「死」や「ゲームオーバー」の問題を扱っているが、けっこうざっくりとした表現の仕方だなという感想を抱いた。このざっくりとした表現をどのようにとらえるのかというのは、「ゲームというメディアにおける表象」とどのような態度で向き合うべきか、を考えたときいくつかの重要な問いを含んでいるように思うので、その問題について書きたいと思う。[1]
今回、「死」や「ゲームオーバー」の表現について2つの点で今までとは異なった試みをしている。単にストーリーのみを取り出してみた場合、なるほど、これを「よかった」という感想を抱く人が一定数いるのはわかるようなものだ。他方、逆の評価をした人も当然いたはずのものだ。たとえば『MOON』(1997,ASCII)を褒める人であれば、今回のDQ11についてどのような評価をするか、悩ましい表現があった。
ゲームというメディアのなかでこのようなストーリーテリングをすることについて、いくつかの重要な前提を確認したうえで、この問題をどう評価するのかを述べたい。
いくつかの前提というのは、第一にゲームにおける「喩え」とどのように接するかということ。第二に我々が複合的なリアリティがつなぎ合わされたメディアとどう接するかということだ。
結論から言えば、この二つの問題にどのように扱うかによって、同じ作品に対して、まったく逆の感想を抱くことが可能だ。
これらの前提について確認していくことからはじめよう。
なお、以下のテキストは後半から当然のようにネタバレを含むのでご了承いただきたい。
*メカニクスと表象:「喩え」の設計
ゲームデザインにおける重要なポイントという話をする場合、難易度調整(チューニング、バランシング)、レベルデザイン(マップ・デザイン)、メカニクスデザインなどといった要素がトップクラスのものとして挙げられること。これらに並んで重要なものの一つが、ゲームデザインにおける「喩え」をどのように設計するかということだろう。
ゲームを設計する側にまわらないと気付きにくいことだが、多くのゲームはさまざまなポイントの集合でできあがっている。ポイントA:30、ポイントB:50、ポイントC:32を割りふって…といったようなポイントの集合としてゲームはみなすことはできる。シューティング・ゲームであればポイントABCはそれぞれ機体の「連射速度」「攻撃力」「機体速度」かもしれないし、ギャルゲーであればキャラごとの「好感度」「友好度」「体力」かもしれないし、レースゲームであればマシンごとの「カーブ性能」「最高速度」「加速度」かもしれない。ゲームデザインというのはこれらの「ポイント」のどのように名前を付けていくか、という作業でもある。
この問題について極めて意識的な発言を繰り返しているのは宮本茂だろう。発言を引用する。[2]
遊びには、ゴルフタイプの「ボールをゴールの穴に入れるという、みんなが納得できるルールの遊び」と、野球タイプの「誰かがつくったルールの遊び」があるのです。だから、ゴルフタイプのゲームの場合はルールが明確なため、つくるのが比較的ラクです。それに比べて野球タイプは非常に難しい。『ピクミン』は野球タイプだったため、ルールづくりには非常に悩まされました。
最初は、「一定数以上のピクミンを集めればクリアー」というルールだったのです。でも、この「一定数」って誰が決めたの?ということになりますよね。そこで思いついたのが、「特定の数以上でないと運べない荷物を回収する」というルール。小さいものからだんだんと運びはじめるので、プレイしていくと「大きなものは重たい」という共通の認識ができるのです。そのため、たくさんのピクミンが必要になるゲーム展開となり、結果的に、ピクミンを集めるゲームとなったのです。
『ピクミン』のような野球タイプのゲームは、自然な形で目的を達成させるルールをつくることが重要です。
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