ニュースを見て、「何で?」と悲しくなることがある。
それが、鹿児島県薩摩川内市議会の再稼働賛成決議である。市議26人中、19人が再稼動を求める陳情の採択に賛成した。岩切市長は「市民の代表である市議会が、慎重かつ丁寧な審議をしたことを高く評価」と述べた。九州電は同日、「市議会、市長の判断に感謝する」と述べた。
事故があれば間違いなく、その地を捨てなければならない。それを福島原発は示した。
でも原発の再稼働を認めるという。
何故、その判断をしたか。
それは分っている。
でもするのは止めよう。
あまりに淋しいから。
事実関係(28日ロイター)
「川内原発が立地する鹿児島県薩摩川内市の市議会と岩切秀雄市長は28日、同原発の再稼動にそれぞれ同意した。再稼動に向けた地元同意の手続きは、鹿児島県議会と伊藤祐一郎知事の判断に焦点が移るが、県議会・知事とも再稼動に賛成
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コメント
昭和天皇をしてポツダム宣言の受諾を決意させたものは広島・長崎上空での原子爆弾のさく裂ではなかった。ソ連の対日参戦が昭和天皇の恐怖を呼び、昭和天皇はついに宣言を受諾したと言われている。権力の最高位にあると下々の地獄は見えない。決断が遅くなるのもよく理解できる。
矢部宏冶氏は著書”日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないか”で原発には内閣より上位にある権力が存在していてそれが再稼働を押し進めていると指摘している。その権力は戦前の昭和天皇に相当すると考えれば理解しやすいと私は思う。上位構造故に思考傾向は昭和天皇のそれに似ているに違いない。ただ、その機関が昭和天皇みたいな自然人ではなく一部の官僚と外国勢力の人々の集団だから無責任になりがちで、もっと性質の悪いものがあると私は考える。
無責任な上位権力にとって福一の一連の爆発は広島のピカドンに相当すると私は想像している。彼らにとって次なる長崎も痛くもかゆくもない。ソ連参戦を知り小田原評定もどきをやるかも知れない。それくらい権力の上位にあると鈍感にならざるを得ないと私は想像してる。これでは国民はたまらない。私たちはこの摩訶不思議な権力の二重構造を糾弾し、内閣に猛省を促す努力を続けざるを得ない。市議会や知事という機関は金の匂いに麻痺している連中ばかりで構成されているから残念ながら何も期待できないのが歯がゆい。
みんなのコメントを読んでいると感じることが多い。自分は馬鹿だったなとも思うし、金の臭いがするのはそんなに悪いことなのかとも思う。でも何が大切なことなのかもう一度考え直さなければならないと思った。自分を守ろうと無意識に行動することは、必ずしも自分のためにはならないのだ。同じことが原発地域の人にも言えるんだろうと思う。自分を守るために自分に嘘をつく、そういうことはしてはいけない。そう思った。アングロサクソンがどう偉いのかは知らない。ただアングロサクソンには良い部分のあった。それは忘れたくはないと思う。それもいけないことだろうか?
悲しいというより私は腹立たしい、そして理解できない。この国は本当に変だ。
(ID:18367902)
国家と国民が互助共済的関係にあると、このような結論になることは、当然予想されるところであった。
国家補助がどの程度川内市予算の割合になっているかわからないが、川内市の予算を削ることに市民の同意がなければ、原発廃棄に進まない。人間としての普遍的な生存権に対する深い慈愛の心がなければ、現在の生活を切りつめても、原発廃棄しようという意思が出てこない。川内市は、生活の厳しい地方だから危険を承知で原発を呼び込んだのであり、原発再稼働無くして生活が維持できない、現実的問題が優先したのでしょう。川内市の結論は、悲しいというより、哀れである。原発がなければ生活できない極貧の地域というレッテルが張られてしまった。