3月13日朝日新聞は次のように報じた。
「安倍内閣は12日、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が主権回復した4月28日に、政府主催の記念式典を開くことを閣議決定した。自民党は昨年の衆院選政策集で式典開催を明記しており、安倍晋三首相が式典開催にこだわった。
 菅義偉官房長官は12日の記者会見で「日本が占領下から脱却して主権を回復し、国際社会に復帰した。日本の戦後を象徴する主権回復の日だ」と説明。式典は国会近くの憲政記念館で開催し、天皇、皇后両陛下も出席する予定。
 自民党は条約発効した1952年から60周年の昨年が節目としていたが、野党のため式典は実現しなかった。その代わりに衆院選政策集に「政府主催で4月28日を『主権回復の日』として祝う式典を開催する」と明記。政権復帰で安倍首相が「党の公約だからやろう」と指示し、首相主導で開催が決まった」
 こうした流れは、いわゆる右派といわれる論客の主張と軌を一にする。
 渡部昇一.comは次のように記載している。
「4月28日は主権回復記念日です。
「風さゆる み冬は過ぎて 待ちに待ちし 八重桜咲く 春となりけり」 昭和天皇
 
昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、我が国は約7年に及ぶ占領から解放され、主権(独立)を回復しました。
独立回復のときの昭和天皇の御歌がいくつかある。そのうちの一つは上記の歌 である。昭和天皇は占領下の七年間を「風冷える冬」、風の冷たい冬だ と認識しておられたわけである。早く桜が咲かないかな、咲かないかな 、なかなか咲かない、ようやく八重桜が咲く春となった。こういう歌である 。それを当時の日本人は忘れていたし、政治家も忘れていた。
もうひとつに
「国の春と今こそはなれ霜こほる 冬にたへこし民のちからに」
があります。
独立記念日は世界の国にあります。日本にはありません。
日本の独立を回復した428日を主権回復記念日として祝い広めていきましょう。」
 「主権回復の日」と閣議決定したと聞いた時には、私はブラック・ジョークでないかと思った。サンフランシスコ講和条約締結の日は日米安保条約という対米隷属確認の日である。私の『戦後史の正体』から関連部分を引用したい。
一九五一年九月八日、日本はサンフランシスコで講和条約(平和条約)と日米安保条約に調印しました。
 このふたつの条約は戦後日本の基礎となっています。
 講和条約はサンフランシスコの華麗なオペラ・ハウスで、四八カ国の代表が調印して結ばれました。
 では、日米安保条約はどうだったでしょう。
米国側は、アチソン(国務長官)、ダレス(国務省顧問)等4名、日本は、吉田首相ひとりです。
この条約をどこで署名したのか、場所はサンフランシスコ郊外にある米国陸軍第六軍の基地のなか、しかも下士官クラブでした。
第六軍はフィリピンなどで日本軍と戦い、終戦後日本を占領した軍隊です。
一九四六年には外務次官にもなった寺崎太郎の言葉。
「印象的な事実は、安保条約調印の場が、同じサンフランシスコでも、華麗なオペラ・ハウスではなく、米第六軍司令部の下士官クラブであったことである。これはいかにも印象的ではないか。下士官クラブで安保条約の調印式をあげたことは、吉田一行と日本国民に『敗戦国』としての身のほどを知らせるにはうってつけだったと考えたら思いすごしだろうか」
「周知のように、日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約〔講和条約〕―安保条約―行政協定の順序でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明らかになっている」
 それではここで、旧安保条約でなにが一番の問題だったか。最大の問題は、旧安保条約には米軍の日本駐留のあり方についての取り決めが、なにも書かれてないということです。それは「条約」が国会での審議や批准を必要とするのに対し、「行政協定」はそれが必要ないため、都合の悪い取り決めは全部行政協定のほうに入れてしまったからなのです。
寺崎太郎の説明をさらに見てみましょう。
「ところで安保条約に対する第一の疑問は、これが平和条約のその日、わずか数時間後、吉田首相ひとりで調印されていることである。という意味は、半永久的に日本の運命を決すべき条約のお膳立てが、まだ主権も一部制限され、制限下にある日本政府、言葉を変えていえば手足の自由をなかばしばられた日本政府を相手に、したがって当然きわめて秘密裡にすっかりとり決められているのである。いいかえればけっして独立国の条約ではない」
 米軍が日本に駐留することが独立の条件になっていた。
 一九五一年一月二五日、ダレス国務省政策顧問が訪日し、日米交渉が開始されます。
 ここでダレスがどのような姿勢で日本との交渉にのぞんだか、それは次のようなものでした。
「一九五一年一月二六日、日本との交渉に先立ち、ダレスは最初のスタッフ会議において『われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保できるだろうか、これが根本問題である』と指摘した」
ダレスが日本との講和条約を結ぶにあたってもっとも重要な条件とした「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」という米国の方針は、その後どうなったでしょうか。
答えは、「いまでも変わっていない」です。
その後、日本側から「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」ことを変えようとする動きが出ると、そうした動きは必ずつぶされてきたのです。
行政協定の第二条は、
「日本は合衆国に対し、()必要な施設および区域の使用を許すことに同意する」と規定しています。「施設および区域」というのが、いわゆる基地や訓練区域のことです。
 
つづいて、「いずれか一方の要請があるときは、前記の取り決めを再検討しなければならず、()施設および区域を日本国に返還すべきことを合意することができる」
 とあります。この条文が、ダレスがのべた「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標である」という目的に関係しているのです。一見、どこにもそのような文章はみえません。しかし、ちゃんと入っているのです。
「日本は合衆国に必要な施設および区域の使用を許すことに同意する」
「いずれかの要請があるときは、()施設および区域を日本国に返還すべきことを合意することができる」というのがそれです。さきほどの安保条約と同じ、合意することが「できる」という言葉が使われています。これは義務ではありません。
では合意しなかったらどうなるのか。
現状維持です。
つぎに行政協定の第三条を見てみましょう。
「米国は施設および区域内において、それらの設定、使用、運営、防衛または管理のために必要または適当な権利、権力および権能を有する」
と書かれています。基地の運営上必要とされるものについては、すべて手に入れることができるということです。
 行政協定は、今日の基本的に地位協定に受け継がれています。
外国の軍隊を、「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」ことを認めている国がどうして主権を回復しているのか。
 それを是とし、祝おうとしている安倍首相の神経は隷属体制を是とする奴隷の精神と言ってもよいでしょう。