G.B.サンソムは1904年に駐日英国大使館に配属。以降1941年までの35年間日本勤務。コロンビア大学東アジア研究所の初代の所長。『世界史における日本』(岩波新書、1951年よりの抜粋。
徳川政権の歴史は近代の影響が日本に及ぶのに抵抗しようとした歴史であったと言っても過言でない。家康をはじめ代々の将軍は日本人の生活を一つの型に固定させ、変化を防止しようと努めました。この試みは非常な決意を持って行われた。
信長と秀吉の建設的事業は中央集権のもとに日本の統一を目指したものでしたが、足利末期および戦国時代の耐え難い混乱ののちであったために一つの救いとして民衆から歓迎されました。家康が最後に覇権を握り、徳川氏は極めて鞏固な独裁を打ち立てることに成功しましたが、これは一部の外様大名が決して心底から協調しなかったのを除いては万人がほとんど感謝して全体主義的政治体制を受け入れた実例でもあり
コメント
コメントを書く(ID:21835634)
私の民主主義にたいする疑いは、列強と呼ばれる
悪党強盗国家群のほとんどが、当時は数少なかった
民主主義国家だということを「発見」した中学生の
ころでした。
その疑問はベトナム戦争で決定的となり、
わたしから見れば概ねうまくやっている中国に対して
民主化せよとの御託を並べる「民主主義国家」に対する
怒りとなったわけです。
(ID:19005377)
サムソンの文脈には何か違和感を感じます。ヨーロッパは世界でも特殊な地域です。そこでは重商主義に始まり大航海時代を経て産業革命が起こり世界の人間土地資源を略奪する競争が凄まじい形で起こり、それと並行してブルジョア革命が起こり挙句の果てにプロレタリア革命が起こった。革命をうまく避け世界略奪競争の最終的な勝者に大英帝国と呼ばれるようになったイギリスです。そういう大国の外交官を務めたサムソンが国家主義体制を強化し列強に打ち勝つための手段として採用した全体主義の萌芽を徳川政権時代に求めるのは分からないではないですが、前にも書きましたように次の点を考慮すれば的外れではないでしょうか。
続く
(ID:19005377)
>>6
続き
1.徳川時代では平和と秩序(身分制度)が権力のメインテーマであって、身分を弁えて行動する限りかなりの自由があったのではないでしょうか。この傾向は日本独特のものではなく、お隣の国の朝鮮王朝もそうだし、清国も同じような傾向を示しています。徳川時代に於いて「万人が感謝して全体主義体制を受け入れた」わけではないと私は考えるのです。更に言えば、徳川時代は海外拡張政策を忌み嫌っていますので、挙国一致の全体主義とは無縁だったのです。
2.当時のことを学者は幕藩体制と呼んでいます。それは清国や朝鮮王朝のような絶対王政ではありません。西ヨーロッパに似通った体制だと私は考えています。つまり、大君主国が周辺の小王国を管理しているように徳川幕府が親藩から外様まで大中小綯交ぜに実に巧妙に管理支配しているのです。
イギリスの歴史を細かく知りませんのでイギリスについて言えませんが、他のどこの国でも独裁政権が出来上がれば古今東西一般大衆は従順になるのではないでしょうか。