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 ――さて、前回記事はいかがだったでしょう。
 数々の引用に衝撃を受けていただきたいような、いや、それくらいのことは大前提として知っておいてもらわねば困るぞと言いたいような、複雑な気持ちで筆を進めておりました。
 今回は一歩進めて、「結論」と題されている最終章からの引用をすると共に、著者であるファレルのスタンスについて、考察を進めていきたいと思います。

 全ての男性に共通してある傷は、彼らの使い捨てという心理的傷だ。兵士として、働く者として、父親としての使い捨て。彼らが他の誰かを助けて生かすために殺して死ぬことで、愛されると信じているという心の傷だ。(p381)

 男性運動が効果的な貢献ができるかどうかは、全ての世界中の悪は男性の責任ではないことを説明する能力にかかっている。それは戦争の起因は男性ではなく、生き残るためだったこと。男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった、男性が司令官になったのは守れという命令のためだったこと。それを男性が守らなければ、もっと多くの権利を得るため誰もここにいることもできなかっただろうこと。(p382)


 フェミニズムは「全ては男性の責任である」との陰謀論ですが、それは一般的な人々の感覚とも、少なからず親和性がある。しかしそれも、「男は能動的に動くことが期待されるので同時に責任をも取らされているだけ」の話でした。
 確かに、「九条を掲げていれば誰も攻め込んでこない」が真であれば大変に望ましい話なのですが、やはり「能動的に動くこと」が必要とされる側面はどうしてもある。
 フェミニストたちがそうした考えを持たないのは、或いは彼ら彼女らがあちらから来た兵隊さんに殺されることなく、チョコレートやチューインガムがもらえるという「自信」を持っているから、なのかも知れませんね。
 さて、ではそんな女災社会で、ぼくたちはどのように生きていけばいいのか。
 ファレルはどのように考えているのでしょう。
 実のところ本書を見る限り、ファレルもそこまで明確な指針を提示しているとは言い難いのですが。
 ですが一つに、ロバート・ブライという人物の提唱した「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」というものが語られています。
 これは(あまり明確な説明がなされておらず、想像するしかないのですが)どうも推察するに、男性同士で集まり、感情を吐露しあうことで自らの欲求に気づき、ステージⅡ*の入り口に立とうとするエンパワメント運動めいたもののようです。

 これまでの社会において、男性は自分の心の感情を詰めた卵を全部、愛した女性が持つバスケットの中に入れて共有してきた。(中略)しかし、男性の週末はその代わりとなる感情の源を与えるので、男性は孤独を恐れずに、感じたことを主張できる勇気を得られる。(p390)

 これもどうやら、男性たちが週末をそうした男性解放運動に費やすことを現しているようです。
 さて、皆さん。
 彼らにぶつけるべきフレーズが何か、おわかりでしょうか?
 さあ、皆さん、ごいっしょに。

 ――ホモソーシャル!!

 事実、どうもこの運動はかつての「男性結社」を思わせます。
 この話題は、実のところ不勉強で今まで言及せずに来たのですが、中世ヨーロッパを発祥とするフリーメーソンのような「秘密結社」というのは、どうもそのようなものらしいのです。この種の結社の入社資格はキリスト教を信ずる成人男性とされ、察するにこれら組織の主旨は「仕事仲間とはまた別な、男同士の友だちと親交を深めよう」というもののようなのです。
 二十年ほど前、まだ「ホモソーシャル」という言葉が一般的でなかった頃、現代思想系の雑誌でフェミニストが「男性結社はホモ」とひたすら書き殴っている電波妄想系の論文を読んで眩暈を覚えたことがあったのですが、今から思うとこれは「男性による秘密結社はホモソーシャルな存在である」と言いたかったのでしょう。その意味で、「フリーメーソンは世界征服を企む悪の組織」という陰謀論とフェミニズムとは、全く同質のものなのです。
 そしてまた「オタクサークル」もそうした、一種「男同士の秘密結社」であることは、論を待ちません。
 いつだったかぼくは「オタク」というものを「裸の男性性」と表現しました。ぎょっとされた方もいたかも知れませんが、「オタク」とは今まで「父親」「息子」「社員」といった社会的役割を「鎧」にしてきた男性の、その役割を剥ぎ取った、史上ぼくたちが初めて見る「裸の男性」である、オタクは史上初、「自分の好きなことを始めた男性」である、史上初、ステージⅡの世界への潜入を初めて成し得た男性である、といった意味の言葉だったのです。
 しかしそうした男性のあり方をフェミニズムが「ホモソーシャル」という言葉で苛烈に糾弾していることが示すように、女性は「自分への奉仕をしない男性」を、必ずしも好ましく思いません。
 そしてまたぼくが幾度も「ホモソーシャル」を「冷蔵庫の中の干からびたタクアンの尻尾」と形容してきたように、こうしたオタク文化もまた、一種、「性犯罪冤罪で全てを喪い、刑務所にぶち込まれた男が飯粒で何とか作りだしたサイコロ、そのサイコロを使った遊び」のようなもので、必ずしもそれだけでぼくたちを「リア充」化するものではありません。

*本書では「ステージⅠ/ステージⅡ」という言葉が繰り返されます。これはわかりやすく言い換えれば

 ステージⅠ=生存欲
 ステージⅡ=自己実現欲

 といったようなことです。


 さて、では他に何かいい手はないのでしょうか?
 これも想像ですが、(繰り返しますが、彼はあまり明瞭な言葉を述べていないのです)ファレルは恐らく「ジェンダーフリー」をもって、「男性解放」を成し遂げようとしているのではないか、と推察します。
 ぼくは「女災」という概念を提唱しました。それは、

 女性が被害者性を発揮することにより手にする加害者性/男性が加害者性を発揮することにより負わされてしまう被害者性


 と端的にまとめられますが、ファレルも当然、その程度のことは言っています。

 全ての性的な行動の判断における問題は、自身で判断を下すことに刺激を感じない人たちによって判断を下されるということだ。(中略)男性は、レイズ社がポテトチップスを意図したより食べ過ぎてしまったことで誰かに後から訴訟を起こされるように、女性に意図していたよりも多く彼女がセックスしてしまったことで後から訴えられている。(p318)


 わかりにくい文章ですが、要するに女は性的な場においては、相手に判断を任せておきながら後々全てをジャッジする権力を持っているぞ、ということです。
 そしてそうした男女ジェンダーの歪なあり方を、彼は「ジェンダーフリー」によって超克できると考えているフシがあります。「ジェンダーフリー」という言葉そのものは出てきませんが、本書の端々に例えば

必要なのは女性運動でも男性運動でもなく、ジェンダーを変化させる運動であったのに。(p46)


 などといった記述が見つかります。
 しかし今となっては、フェミニストたちが莫大な予算をぶんどって強行したジェンダーフリー運動の失敗は、明らかです。
 その失敗の理由についても、ぼくは今まで幾度も述べてきたかと思います。

 1.そもそも、「ジェンダーアイデンティティの獲得は後天的である」との学説が虚偽であったこと。
 2.「ジェンダーフリー」そのものが具体的ビジョンのまるで見えない、空理空論でしかなかったこと。
 3.いや、ビジョン以前にまず、フェミニスト自身が「ジェンダーフリー」を地に着いた問題としてリアルに捉えているとはとても思えなかったこと。
 4.何よりも、ファレルの書が余すことなく明らかにしたように、男性こそが生命に関わるような悲惨な「ジェンダー規範」に縛られた存在であったにもかかわらず、フェミニストがそれを全く見てこなかったこと。

 思いつくままに理由を挙げるとこんなところになるでしょうか。
 1.については長くなるので、『バックラッシュ』に関する一連の記事*を参照していただきたいのですが、一つだけ言っておくと、学説のウソがばれた時のフェミニストたちの対応が不誠実極まるものであったこともまた、この運動に対する不信感を募らせる結果となりました。
 2.と3.は被りますが、結局彼女らの目指す世界がどんなものか見えてこないこと、そしてまた、彼女らの方法論に説得力がないことです。例えば彼女らは、ジェンダーフリー教育で「男が青、女が赤とは限りません」などと説くだけでジェンダーフリー社会が到来すると思っているのでしょうか。どうにも彼女らは自分たちの感覚が世間一般の女性とずれているという自覚に乏しく、ちょっと言えばみんな自分たちに従ってくれると思い込んでいるフシがあります。
 いや、そんなこと以前にそもそも、ぼくにはフェミニストたち自身が「ジェンダーレス」を望んでいるとは全く思えないのです。彼女らが「社会進出」を志向する一方、主夫を養う気が全くないことが象徴するように、またBLがジェンダーの再生産であると指摘されるように、彼女らは都合のいい場面では「男らしさ」を自らのものにしたいと思っている一方、「女らしさ」の旨味を手放そうとしているようには、全く見えないわけです。

*バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(仁義なき戦い編)
2012年女災10大ニュース


 ――だがちょっと待って欲しい。フェミニストの「ジェンダーフリー」が欺瞞でしかなくとも、4.を鑑みるならば、「男性の視点をも取り入れた、真のジェンダーフリー」はあり得るはずではないか?

 或いは、ファレルの答えがまさにそうしたものかも知れません。
 彼は男女の能動/受動的ジェンダーについて、以下のようにも言っています。

 もしそれが機能的でないなら、より強い生物学的傾向はより強い変化が必要である。もし女性の受動性が生得的なものであると立証されたなら、それは、女性が自信を持って自己主張するトレーニングの必要性を増やすだろう。もし男性の攻撃性が根深いものなら、それは、男性が自信を持って自己主張するトレーニング(攻撃性のトレーニングではなく)の必要性を増加させるだろう。(p103)


 また彼は「男女平等憲法修正条項」というものを仮想し、こう言います。

その法律は、男性だけにいかに誤った行動をしないように講義するのではなく、女性にセックスについての主導権を握り、セックスを拒否されるリスクを負う平等な義務があることを教育するインセンティブを学校に与えるだろう。(p395)

ステージⅠではスーパーマンは外の世界で地震を調査し、彼の愛する女性の命が失われることを防ぐ。ステージⅡのスーパーマンは彼自身の内部の地震を見つけ、彼の愛する女性とコミュニケーションをする。(p386)


 正直、この「地震」という比喩がどこから出てきたのかわかりませんが、本書を読んでいくと1993年という冷戦終結直後に出された本であるが故の、ある種の楽天性のようなものを感じないでもないのです。
 しかしこの「地震」というフレーズが今となっては予言めいていることが象徴するように、今のぼくたちはまさに「地震が起きたため、男だけが調査に行かされている状況」を生きているのです。
 つまり、「男性の解放をも念頭に入れた、真のジェンダーフリー」を考えるならば、それこそえふいちの作業員が男女同数になるくらいを目指さないと、どうしたってリクツにあわない。
 しかしそれは、可能なことでしょうか。
「真のジェンダーフリー教育」でそうした能動性のある女性を増やせばいいのでしょうか。女性が泣こうがわめこうが、アファーマティブアクションでえふいちに送り込めばいいのでしょうか。
 いずれにせよ、現実性があるとは思えません。
 結局、男性の過酷な状況を見据えれば見据えるほど、「真の男女平等」を素描するとなると、「ジェンダーフリー」などと口走っている人々がショック死するようなビジョンしか、描くことはできないのです。
 バブル期、フェミニズムに影響を受けた一部論者たちは「男たちよ、鎧を捨てよ」と脳天気なことを言いました。
 しかし男が女に倣い、鎧を捨て始めたら、誰が地震の調査に行くのでしょう。
 ファレルは

 男性運動はおそらく多くの運動の中で最も長きにわたるものになるだろう、なぜならそれは単に黒人やヒスパニックの人たちを既存のシステムに融和させることを提案するのではなく、システムそのものに革命的移行を与えることを提案するからだ。それは「保護される女性」と「保護者としての男性」を終わらせる。(p397)


 と語ります。
 この「長きにわたる」との予測は大いに賛成ですが、それは同時に、「男女のジェンダーをそのような状態に持って行くには、どうすればいいのか」という方法論も、「そのような状態になった社会とはいかなるものなのか」というビジョンもまだなく、そもそもその前段階として現状を認識することすら、ぼくたちはまだおぼつかない、ということでもあります(何しろ現状を認識するためにはフェミニズムによって行われた「現状修正」を正さねばなりません!)。
 つまり「真のジェンダーフリーによって、男性を解放する」という発想は、純粋な理念としては大いに賛成できるものの、しかしその「真のジェンダーフリー」とは一体どのようなものなのか、その像は、今のところSTAP細胞の一億倍くらい、結ぶことが難しいのです。
 にもかかわらず、翻ってみるにジェンダーフリー論者たちがそうした困難さに気づいているとは、とてもとても信じられない。
 本書の最後は「訳者あとがき」で締められています。
 そこには

それ(引用者註・ファレルの考え)には長年のフェミニズム活動の経験が役立っている。男女平等運動に与し、リベラルであったからこそ(つまり人種差別反対運動にも協力的)、男性差別というものをフラットな視点でとらえることができたのだ。(p408)


 と書かれていますが、フェミニズムが反面教師以上のものにならないことは、明らかでしょう。
 しかし一体全体どういうわけかどうしたことか、リベラル寄りの人たちの中には「男性差別」と詠唱しつつ、何とかフェミニズムを延命させたいと考えている人々が一定層、いらっしゃいます。
 このあとがきには


 (引用者註・ファレル氏のスタンスは)性役割の維持を目指し、フェミニストに反発する保守派と一八〇度立場が違う。(p404)

 (引用者註・この書について)フェミニストはどのような態度をとるだろうか? おそらく本当に男女平等を目指し、人が本人の生まれつきの性別によって得も損もしない社会の実現が目標である、そのようなフェミニストは男性差別の解消にも協力してくれるだろう。(p406)


 とファレルの主張とは一八〇度違ったことが書かれています(ただし、このあとがきもフェミニズムに全く問題がないと言っているわけではなく、またファレルも匂わす程度ではありますが、理解あるフェミニストの存在を示唆してもいます)。
 ぼくがジェンダーフリー論者に対して感じる違和は、彼らのどう考えても非現実的という他ない、フェミニストへの傾倒、過大評価です。
 フェミニストのジェンダーフリーは無惨としか言いようのない失敗を呈したと同時に、そもそも男性側の悲惨な状況は、全く勘定に入ってはいなかった。何よりフェミニストたちの正気とは思えない男性憎悪の念を見れば、彼女らが男性を救うことは、宇宙人がUFOに乗って救いに来てくれることの一億倍くらい、想像しにくいことです。
 今回、ぼく以外に本書のレビューしている人はいないかと調べてみると、後藤和智が

本書は「女性よりも男性のほうが差別されている」と主張しているものではなく、それぞれの性に対してそれぞれ違った差別と抑圧の構造が存在すること、そして「女性」に対して過度にそれが重視されてきたことを問題視し、「男性」についても同様に見るべきだ、というのが趣旨と言える。


 などととんでもないことを書いており、腰を抜かしそうになりました。
 もうこうなると、単純にこの種の人たちは自らの願望が現実を超克してしまって目の前に書かれていることも全く見えないのだ、と考えた方がいいのかも知れません。
 ちなみに上の文章は

そして性別以外の社会的要因などにも目を向け、真の意味でのジェンダー解放のために何が必要かと言うことを述べている点では有益だろう(本書はどちらかと言えばジェンダーフリーを志向していると言える)。


 と続いており、後藤のスタンスは明らかです。
 彼らのフェミニストを信仰する心理がいかなるものなのか、ぼくには見当もつきません。既存の社会システムへの憎悪が先行しているのか、或いは「あのキビしいフェミニスト様がボクにだけは優しくしてくれた」といった宗教体験に根差しているのか、いずれにせよ「選ばれし者」にしか理解の及ばない世界であることだけは、確かでしょう。

 ――少し寄り道が過ぎました。
 いろいろ書きましたが、しかしぼくはファレルを「ジェンダーフリー論者」として糾弾しようとしているわけではないのです。
 確かにファレルは(後藤の指摘通り)ジェンダーフリー的なスタンスを取っているようにも見えるのですが、同時に上に引用した言葉は長い長い大著の中からようやっと見つけてきたモノであり、全体を見渡してみれば殊更にジェンダーフリー推しであるという印象は受けません。そもそも、これは1.で書いた「ジェンダーアイデンティティ後天論」が覆されていない年代に書かれたものです。
 また、「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」では「男性に感情の吐露をさせること」が説かれており、それは従来のジェンダーフリー論者の言うような、「女性に倣う」ことを志向するものではあります。しかし先に九条を比喩に出したように、むしろファレルのスタンスは「男も女に倣いマチズモを捨てること」ではなく「女も男に倣い積極性を身につけること」であるように思われます。女性側に男性を倣えとするスタンスは、フェミニズムとは完全に一線を画するものです。
 彼の「夫の代わりとしての政府」との指摘(前回記事参照)もまた、家族解体を志向するジェンダーフリー論者の主張とは、親和性が低いでしょう。
 ただ、いずれにせよ本書はデータ中心であり、ファレルの真意は掴みかねるとも、またファレル自身が適切な戦略を打ち出しかねているとも(そしてまたそこを逆手に取ってファレルの主張をねじ曲げようとする論者がいるとも)言えるのです。

 最後にちょっとだけぼくのスタンスを書いておきましょう。
 ぼくが言っているのはジェンダーフリー論者の主張が許容しにくいと言うことで、ジェンダーフリーを全否定しているわけではありません。「女性に倣う」ジェンダーフリーもまた、全否定はしません。
 日本には「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」の代わりに「オタクサークル」があり、ぼくたちは近いことを知らず知らずのうちに実践している。しかしそうした草食化的な男性解放のあり方は、フェミニストを含めた女性の側こそが否定するものであり、女性の方こそが変わらねば「やむを得ず選択された、窮余の策」に留まる、そして果たして女性が変わることを期待できるのだろうか、というのがぼくの考えです。
 だから結局、「地震への調査」の任務から、ぼくたちが解かれることは期待しにくい。
 ファレルの「地震」の例えは非常に象徴的なもので、震災後、自衛官が婚活パーティなどで人気、といった話も伝え聞きます。
 日本は恐らく「ステージⅠ」に逆戻りしつつある。
 こうなると未来は、それ故、男が(今に比べればまだ多少はマシな程度に)復権する、という展開になるのかも知れません。そしてそれは、赤木智弘氏の「希望は、戦争。」という言葉が象徴するように、「それでも今よりはいい」と言わざるを得ません。
 しかしながら、それは同時に男性がファレルが再三強調するように「使い捨ての性」であることの証明に他ならないわけです。
 ぼくとしてはせめて、「ステージⅠ」におけるアドバンテージをキープしつつ、将来また「ステージⅡ」に至った時も多少は女性に言うことを利いてもらえるよう、いろいろと準備をしておこうくらいの提言しかできないのです。
 それはステージⅠ的生き方をしつつもステージⅡ的なオタライフをも充実させる、ジェンダーレスどころか超両性具有的生き方となりましょうか。