目下、『WiLL Online』様で新しい記事「松本人志裁判取り下げをどう見る?」が掲載されています。
卑劣なパオロ・マッツァリーノのデマゴーグも一刀両断にした、おそらく本件に一番切り込んだ記事となっていることでしょう。
目下、第二位。どうぞ応援をよろしくお願いします!
さて、本題は今話題の田中東子師匠のご著書です。
田中師匠については「東大教授のくせに変名でBLを(商業出版でも)書いていたこと」「そのくせ萌え表現は燃やしていたこと」が難詰されました。
前者に(だけ)着目し、「何を書こうが自由ではないか」と擁護する向きが(表現の自由クラスタ方面に)いますが、問題は後者と整合性が取れてないということであり、そこを突っつかれるのは当たり前です。
ただ、もし仮にその点について田中師匠に問い質したら、師匠はおそらく本書を自慢げに掲げてくるのではないかと思います。
まあ、その辺については後にゆっくり語るとして。
実はぼく、この本、騒ぎの前にたまたま購入していました。
いや、やん師匠という御仁が本書を批判していたのを見て、ついつい尼でポチったのです。
やん師匠は以下のように宣っていました。
「はじめに」から偏見が多くて辛い。オタク文化は男が異性愛を語り消費するものと決めつけ、その他のオタクたちの存在を矮小化し頭を踏みつけながら、男オタクたちは上で私は下にいると思い込み拳を振り上げている。そんな本なのである。
(https://x.com/skd7/status/1839284656379945458)
そんなこと言ったって、「オタク文化は男が異性愛を語り消費するもの」なのは自明であり、だからこそ異性愛を全否定するフェミはオタクの萌え表現をここ十年来、ずっと燃やし続けてきた。
だからぼくはこれに対して「正しいじゃん。」と書いたのですが、そうしたらやん師匠、速攻でこっちをブロックしやがりました。
まあ、彼のことは詳しく知りませんが、フェミ信徒なのでしょう、きっと。
さて、ともあれそんなこんなで同書のページを開いたのですが――。
・オタクについての記述が、ない本
開いてみて大後悔。
これ、「オタク」についての本じゃないです!
ここでは「オタク」という言葉は専ら「男性アイドルファンの女子」という意味で使われます!
「いわゆるオタク」の話題は、ほとんどないです!!
以前も同じようなことを書いたことがありましたが、こっちはまあ、だらだらしゃべりの対談本だから……という感じではあったのですが。
その意味で、やん師匠の「オタク男性を見下す書」とのコメントも全く事実に反しています。この人、字が読めないんでしょう。
さて、しかしまあ、ある意味では同書のタイトルも「正しいじゃん。」かも知れません。
Xではドヤ顔で「萌えから推しへ」みたいなことを言う輩がいますが、そもそも萌えと推しとは似たような概念だけど、言ってる主体は違います。「萌え」と言っていたのは一応はオタク男子であったのに対し、「推し」と言っているのはいわゆるアイドル好きのおねーちゃんでしょう。
しかし「ジャニオタ」といった言葉に代表されるように、そのおねーちゃんたちこそが「オタク」であるということにもう、なってしまったのです。
ちょっと前、togetterだかどこかで「オタクはもう女を指す言葉になってしまった」と書いても理解されなかったのですが、こうして見るともう、それは自明としか言い様がないわけです。
世間ではオタクというのはもう、アイドルファンのおねーちゃんなのです。
いつも書く通り、本稿もここで終わりでもいいのですが、いつも書く通り、大枚を投じて買ってしまった以上、記事のネタにでもしないとやってられません。
そんなわけで別な視点から本書を斬りましょう。 本書のまえがきでは本書のタイトルについて、以下のように述べられます。
一つ目の理由は、「オタク文化」という言葉がこれまで無意識のうちに「男性オタクの文化」として流通してきたことへの静かな異議申し立てである。「オタク論」とされるものはこれまで、ジェンダー的には無微で中立的な言葉であるかのようにふるまいながら、主に男性オタクのための論であった。
(9p)
もちろん、ウソです。
そもそもオタク文化自体が男性発祥のものであり、ジェンダー的に中立なんてことはあり得ない。こう書くと「初期のコミケの参加者の多くは女性で」などと言い出す人が出そうですが、まずオタク文化黎明期(八〇年代初期)にはそれは、「ロリコン漫画」と呼ばれるメディアで展開していました。もちろん一方では『JUNE』などもあったし、アニメファンの中にも(『ガンダム』を除くと*)女性は多かったのですが、独自の文化として勢いがあったのはこの「ロリコン漫画」でしょう。もちろん描き手読み手に、女性は決して少なくなかったとはいえ。
さらにこの当時、「オタク」とは唾棄すべきゴミ虫くらいの意味であり、女性は決してオタクとは呼ばれなかった。女性は守らねばならないからです。オタクという言葉が肯定的に語られるようになった九〇年代後半、いきなり女性がオタクをまるでサブカル君のように名乗りだした、というのが実情です。
さらにジャンルをBLに限るならば、それは十全に語られてきたでしょう。田中師匠がよく執筆し、本書の初出ともなっている『ユリイカ』でも特集は組まれてきました。
もう一つ、時々言いますが、オタク文化と共にオタクそのものへとスポットを当てた「オタク男子論」とも言うべき『電波男』が話題になった時、出版社は「電波女」を、自らを語れるオタク女子を探しましたが、見つけ出すことはできませんでした。彼女らはこの時も「隠れていた」のです。
さて、しかし本書はそのBLにすらほぼ言及されていません。腐女子をオタクというならわかるけど、アイドルファンがオタクかとなると、やっぱり違うでしょう。例えばサッカーファンを「サッカーオタク」と呼ぶような、一種の比喩的用法と考えるべきです。
おそらく(三次元の、男性)アイドルファンと腐女子とはかなり層が被っていて、彼女らの主観ではアイドルファンを「オタク」と呼ぶことに違和はないのでしょうが、ぼくからすると大変に違和感があります。
そんなわけなので以降、本書において「オタク」と詐称されている者たち、つまり男性アイドルにハマっている女性ファンのことを、本稿では「アイドルファン」と呼称します。
まあ、フェミニストの本です。数行の記述に対するツッコミだけで大量の文字数を必要とするのはいつものことですが、タイトル詐欺についてはこの辺にして、内容について語っていきましょう。
*ギャグ
・何かネオリベみたいなことが書いてある、本
さて、本書では「推し」という言葉の普及ぶりを誇るように、ひたすら経済雑誌だ、芥川賞を取った小説だ、NHKのドラマだと、あらゆる場で「推し」という概念が扱われていることが嬉々として並べ立てられます。
が、アイドルや宝塚を見れば推し活に類するモノは以前よりあったし、それは本書にも言及のあるところです(そればかりかこういうの、歌舞伎の昔からありましたよね)。
しかし、今日日の「推し」には二つの独自性があるのだというのが本書の主張です。
一つは「ネオリベ的土壌の上にある」こと、もう一つは「ネット上で行われる」こと。
しかし、前者は資本主義的と言い換えても構わず、別にそれも昔からだよなとしか。要するに近年のアイドル産業は商業主義的だ、さらに「推し」とは要するに積極的ファン活動であり、金銭はおろか労働力をも企業に搾取されているのだといった話が続くのですが、別に独自性はありません。
ネットについてもファンがネットで宣伝の一環を担わされていることが独自だ、といったハナシになります。確かにSNSや動画投稿サイトなどで「推し」の宣伝をするのも「推し活」の一環です。ネット時代に入り、大衆が「発信者」となったはいいが、ファンは専らアイドル事務所の「ブラック社員」さながら、宣伝活動に従事させられている、というわけです(師匠はこれを「情熱のカツアゲ」などと称しています)。
ただ、それも昭和のファンクラブの頃からある話じゃないかとは思いますが。九〇年代末ですが、ブラックビスケッツという音楽ユニットがテレビ発信で「CDが売れなきゃ解散!」と煽って買わせる手法を採っておりました。
他にもマルクス主義に準え、芸能事務所が資本家でアイドルをファンから独占しているとか言ってるのですが……あの……あんまり言いたくありませんが、芸能事務所がイケメンを発掘して、テレビだの写真集だので消費者に届けてくれるから、あなた方がイケメンに賜れるのであって、そうじゃなきゃ、とてもとてもお近づきにはなれないんじゃないでしょうか。その意味でアイドルって師匠の指摘とは真逆の「イケメンの共産主義」です。
一方、アイドル側も「搾取」されているそうです。
近年はファンがネットで「布教」する以上に、アイドルもツイッターなどでプライベートの時間までも「営業」に費やしているのですから。
何かそれが大変で大問題だ、みたいな話なのですが、じゃあファンを止めればいいじゃん、以外の言葉を思いつきません。
大体、昔のアイドルの方がプライバシーゼロで住所まで知られていて大変だったと思いますけどね。
以上、何も言っていないに等しい内容なのですが、これは要するに社会学者である師匠が自分の大好きなアイドルについて、マルクス主義だ何だと自分の専門分野にこと寄せてちょっと語ってみました、ということです。
・何か性的搾取みたいなことが書いてある、本
さて、しかし田中師匠もフェミニストなのだから、ジェンダー論もまた、ご専門でいらっしゃいますよね。そっちの方はどうでしょうか。
「女はずっと男性アイドル(俳優、タレント、アニメキャラ含む)を消費してきた。自分の欲望の対象として『見る』対象としてきた。が、それは今まで専ら「ミーハー」という言葉の下に貶められてきた(大意・136~137p)。
あっ、はい。
要するに本書の主な主張は、「アイドルファン」が女性ながら男性を「まなざす」という主体性を獲得した存在である、ということです。
これは、例えばですが以前ご紹介した『ポルノウォッチング』や、上野千鶴子師匠のデビュー作『セクシィ・ギャルの大研究』などを見れば、フェミにとっては一大テーマと言うことがおわかりでしょう。
要するに男が女を「まなざす」ことは男による女の支配であり、女性差別でケチカランという。
もっとも、田中師匠の筆致は、ちょっとどっちつかずです。「女が男をまなざすようになった、やったー、カッコイイ!!」で終わらないのです。まえがきからして「オタク文化は異性愛主義であるため、女性による男性性の消費が行われていた(大意・10p)」などと書かれています。
今までフェミニズムは「復讐史観」でものを見ていました。男に対していかに残忍で卑劣な言動を取ろうとも、それは今まで男たちが女を搾取し続けてきた(という妄想史観)ことに対するカウンターであり、許されるというのが彼女らの考えでした。
そこを(形だけでも)葛藤してみせている田中師匠はフェミニストの中ではまだしも、良心的な人だと言えるのです。
が、「じゃあ、アイドルファンなんか止めればいいのに」と思いながら読み進めると、まとめとして以下のような記述に行き当たります。
一見、アイドルを応援することで金銭や時間など様々な所有物を搾取されているかのようにも見える女性ファンの得ている対価は確実にあるし、男性アイドルと女性ファンの関係性のなかには、性的搾取以外の多くのものがある。とするならば、男性アイドルと女性ファンの研究は、ひるがえって女性アイドルと男性ファンの関係性を単なる「性的な搾取」のみに加減してしまわない、別の可能性を見出していくことにも貢献できるのではないだろうか。
(139p)
何か急に男性の女性アイドルファンが巻き添えを食らってますが、要するにこれは、「これからも考えていかなければならない問題だ」と言っているだけで、別に内容のある文章ではありません(そもそも上にある「性的搾取以外の多くのもの」が何なのか、よくわかりません)。
最終章である十章でも、似たようなマッチポンプ的記述が繰り返されます。
女オタクによる男性消費はそのすべてが単なる搾取にはなるわけではない、ときっぱり宣言し、そこに搾取以外の何があるのか、一度きちんと考えてみることは重要かも知れない。同時に、もしそのように宣言するのであれば、男オタクによる女性消費のなかにも、「男性による女性の単なる搾取」以上の何かがあることを考えてみなければならないだろう。
(238p)
「考えてみることは重要」と言っているってことは、「搾取以外の何か」についてはまだ、思いついてないってことです。
その上でいきなりこっち(男オタク)へと話を押しつけ、一腐り批判した後、以下のように締めます。
二次創作やファン文化、それ以外のあらゆる文化的な活動が、既存のくびきからわたしたちを切り離すと同時に、新しい関係へとつないでくれる可能性を秘めている――その可能性を、私は絶対的に信じている。
(238~239p)
絶妙に、いいことを言っているようで、実質何も言っていない文章です。
フェミの文章って、痛いところを突かれると大体「これからも考えていかなければならない」で終わるんですよね。
そもそもアイドルやアニメキャラを愛好することが「搾取」であるというフェミ以外には理解不能なロジックをこっちに押しつけられても困るのですが、もしそれを「搾取」というのならば、アイドルファンの振る舞いは「搾取」以外は特に何もないでしょう。
翻って「萌え」コンテンツは「キャラ萌え」以上にストーリーや演出などにおいて優れたものがいくつもあるのだから、「搾取」以外の何かが大いにあると言うしか、ひとまずはないのではないでしょうか。
師匠は「技術のある成熟した男性もまた、女性はアイドルとして見ている」などとしていますが、彼らをアイドルと呼んでいる以上、それは「性的な消費」がメインであるとしか言いようがないわけです。もう一つ、師匠は「ファン活動はクリエイティブ(17p)」みたいなことを言っているのですが、その具体例については一切語られません(応援する団扇とかがクリエイティブなのかなあ?)。
――さて、まだまだツッコまねばならないことがあるのですが、もう相当の文字数を費やしてしまいました。
まだジャニーズについての6章、ルッキズムについての8章、そして(自分を)男の娘(だと思い込んでいる一般オカマ)についての9章と、ご紹介しなければならない点が多いのですが、ここで一端休憩にしまして、続きは明日か明後日にお届けしようかと思います。
コメント
コメントを書く