みなさま、早いもので2019年も半月を過ぎ、残すところ後十一ヶ月と少し(以下略)。
 というわけで年末企画です。

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 ――終わってしまいました。
 もう少し続けましょう。

 2018年男性問題十番勝負

 ――というわけでここからが本番です。
 何でも2018年の漢字が「災」だそうで、それにふさわしく、女災ここに極まれりな一年ではありました。本来であればそれに乗っかってこんな時こそ「女災ニュース」と題した記事にすべきですが、まあその、思いついちゃったので、今回はこういう趣向です。
 もっとも、年末年始企画は毎回「ニュース」と称しつつ、実際にはその年のまとめ的なことを書いていただけであり、今回も主旨としては変わりません。
 まずは簡単な表を作ってみましたので、ご覧ください。


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 キーパーソンを「反フェミ/親フェミ」、「反オタク/親オタク」で分類しました。
 この「オタク」というのは、(ぼくのいつものクセのようなものなのですが)いくつかの複合的な意味が含まれています。純粋に、オタク文化を嗜好する人物を指している場合もあれば、「弱者男性」「内向的な男性」の言い換えのような意味あいで使っている場面もあります。
 その辺はおいおい説明していくとして、まずは「反オタク/親フェミ」を見てみましょう。

 一番勝負・後藤和智
 二番勝負・昼間たかし
 三番勝負・藤田直哉

 ほい、のっけから三人いっぺんにやってしまいます。一番「反オタク/親フェミ」の要素の高いのがこの三人*1。もっとも、この三人はみな、オタクであったりオタク業界に近い場にいる人たち。普通に考えれば奇妙なハナシですが、常々言っているように、「オタクはちょっと前まで、オタクを狂ったように憎悪していた」のです。このお三方はある意味、その一昔前の「オタク観」から抜け出していない人たちであると言えます。彼らの心の声をここで代弁するならば、「オタクを殺せば、ママも許してくれる!」。男というのはその全てが、女性を脅かす絶対悪であり、殲滅すべき存在である。でも、自分だけは助かりたい、そのためには男を殺し、その首をフェミニスト様に捧げるしかない。それが彼らの考えです。オタクとは「萌え」に代表されるように弱い女性、可愛い女性、要は従来の女性ジェンダーに即した女性を好む存在。そんな連中は絶対に許してはならない。フェミニスト様に捧げるのに最適なのが、その中でも立場に弱い、オタクの首なのです。
 即ち、ぼくがいつも言うように彼らは「フェミニズムを正しいと仮定するならば、正しい」わけであり、この位置にいる人たちはポルノ、エロも否定していることが多い。この三人の各々がどうかは存じ上げませんが、例えば一昨年しつこく採り挙げた稲田豊史、宇野常寛*2とかもこの位置にいる人物であると考えていいでしょう。
 また、『男性問題から見る現代日本社会』*3の著者たちもまた当然、この位置にマッピングされます。女性を慮り、男性を軽んずることがぼくたちの抱えた「ジェンダー規範」であり、社会のコンセンサスである以上、ある意味では「人類の大多数」がこの位置に来るといっても過言ではないわけですね。
 ある意味ではブレのない、、矛盾のない、一貫性のある人たちと言えます。

*1 後藤和智については「間違いだらけの論客選び」、及び「コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』」の前半を参照。
 ちなみに後藤は2018年の冬コミでも上の本の続編みたいのを出して、拙著を「セクハラ告発をバッシングした」などと罵っておりました。本当に、卑劣ですね。
 藤田直哉師匠については「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは嫌オタク流の夢を見るか」、昼間たかし師匠については「左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか」を参照。
*2「ドラがたり」、及びそれに続く四つの記事で述べました。
*3(https://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1578936

 四番勝負・八田真行

 さて、同じ「反オタク/親フェミ」にマッピングされながら、多少毛色が異なるのが八田師匠です。彼の心の声は、「ママに言われて、オタクを屠殺しに来たが…彼らも人間だったのか?」。彼についてはインセル、ミグタウについての二つの記事を、二度に渡って採り挙げました*4。その記事を乱暴にまとめるならば、「インセル」という殺していい悪者を大はしゃぎで殺していくうち、「ミグタウ」という存在に出くわした。その「ミグタウ」が「インセル」とさほど違わない存在であり、しかし殺す口実のない者たちであると知り、自分がやってきたことについて戸惑っている……まあ、実際にそこまで良心的な内省をしているかは心許ないものの、件の記事の流れはどうしてもそのように読めてしまう。彼は、自分が忠誠を誓っていたデストロンが悪の組織だと知り、愕然としているライダーマンのような存在*5に、どうしても見えてしまう。それがやや「親オタク」に寄っている理由です。

*4「八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
*5 リベラルの中の「ちょっとだけ揺らいでいる」人たちを、ぼくはずっとライダーマンに準えてきました。詳しくは「『仮面ジェンダーV3』第44話「ツイフェミ対弱者男性」」を参照。

 五番勝負・御田寺圭
 六番勝負・青識亜論
 七番勝負・借金玉

 これがさらに「親オタク」に寄ると、「アンチフェミ三銃士」であらせられるお三方となります。彼らが「フェミニストの使徒」であることは年末に語り尽くしました*6。とはいえ、(まあ、心の中まではわからないとはいえ)テラケイ師匠など、「オタク」「弱者男性」へ心情的に寄り添っていることに嘘はないとは思います。八田師匠よりはちょっとだけ、「親オタク」寄りなわけですね。とはいえ、彼らを「親/反オタク」のボーダーに置いている理由は、師匠の著作のレビュー*7で述べたように、実のところ自分自身の内面を全く省みていないから。
 彼らの心の声を代弁するならば、「ママはきっとわかってくれる!」というものでしょう。つまり彼らは「フェミニズムは正しい」というドグマを骨の髄、深層意識の髄にまで深く深く内面化して、疑うことなど夢にも思わない。また一方、「内省」という作業を怠っているがため、オタクがママのお言いつけに背いている存在であると、いまだお気づきでない(それとも、何とかママのご機嫌を取るための詭弁を捻っているかのどちらかです)。彼らの使う詭弁は、例えば「BLは、男の娘は、ジェンダーフリーな表現だ」といったもの。もちろん、BLとは腐女子が女性ジェンダーを十全に楽しむための表現であり、男の娘もまた女性ジェンダーを持った少年だからこそヘテロセクシュアルの男性に好まれるのであり、ホモの好むいわゆる田亀源五郎氏的なキャラとは丸きり違う。「萌え」そのものは(BL含め)むしろジェンダーを温存する表現以外の何物でもなく、そこを何とか詭弁を弄して逃げ延びようとしているのが、この位置にいる人たちです。
 テラケイ師匠の著作が実のところ自分の「オタク性」「KKO性」に全く向きあっていないのもそれで、この人たちは要するに「自分が見えていない」。以前、「望遠鏡的博愛主義」という言葉を採り挙げたことがあります。「テレビに映る弱者には涙しつつ、自分の身近にいる弱者など歯牙にもかけない」といった心理状態ですね。師匠の著作は論調としてはそれを批判していながら、実のところ「その心理そのもの」に陥っている奇書といえました。
 後藤和智たちは自分が見えているからこそ「俺だけはオタクじゃない、俺だけはオタクじゃないんだ」と泣き叫んでいるのであり、このお三方はそれとは対照的ともいえるものの、根っこの部分は何ら変わりない人たちなのです。

*6「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。
*7「矛盾社会序説――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る

 八番勝負・久米泰介

「反オタク」で、やや「反フェミ」に寄っている久米泰介師匠もここで語っておきましょう。もちろんこの人はオタクではないのでしょうが、ともあれオタク文化に深い深い憎悪を抱いていらっしゃる方であることは、周知の通りです。しかしここではそればかりではなく、比喩的な意味でのオタク、「内向的な男性」「草食系男子」とでもいったニュアンスで、この言葉を捉えてください。
 言うまでもなく、師匠は「BLを殲滅するために、男性向けポルノをも否定する」という「身体中の全ての骨を断たせて薄皮一枚を斬る」戦略の提唱者であらせられます*8。ここには一つ、明らかに自分の足下の見えていない「三人称」的な感覚の主の過ちが見られる。師匠の訳書の二冊目が『広がるミサンドリー』*9であったことを考えると、何というか、お前こそミサンドリストやんけと言わずにはおれません。もっとも、以上は「師匠の言を理論的に演繹していくとこうなる」というだけのことで、実際には師匠は、「何も考えていない」「考えることに慣れていないため、ふと湧いた着想を検討することもなく振り回しているだけ」というのが実情である気もします(もっとも、さらにいうと、これらは突き詰めていけば結局は同じことです)。しかしだからこそ、師匠はフェミズムに情緒的に反発しながら、彼女らの「ジェンダーフリー」という(どう考えても非現実的な)方策に一切、疑問を覚えていない。師匠を「親/反フェミ」のボーダーにマッピングしているのは、師匠が一面ではフェミニストにすぎないから、です。師匠は「ママなんか嫌いだ! ごはんまだ?」とちゃぶ台に引っついている子供、なのです。
 以上、「親フェミ」派の諸氏についてざっと見てみました。
 お気づきのことでしょうが、彼らはみな「フェミニズムは正しい」という刷り込みを強固になされている存在です。恐らくフェミに異を唱えると「暗黒結社」に脳にセットされた装置が爆発するのだと思います。

*8「久米泰介「男性に対する性の商品化の学問上の批判」を読む
*9「秋だ一番! 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)」、「広がるミサンドリー(その2)」、「広がるミサンドリー(その3)

 九番勝負・ドクター差別

 さて、困りました。一応「反フェミ/反オタク」としてはいるものの、この人については語ることがありません*10。この人は一応「反フェミ」かもしれませんが、別にフェミニズムについて何ら知識はない。フェミニズムを十全に理解し、その上で詐欺行為を行っている青識、テラケイ両師匠とは対照的です。
 また、「反オタク」というのもどうかと思われる方がいるかもしれません。彼はもちろん、いわゆるオタクではないでしょうが、ことさらアンチオタクでも、ないことでしょう。さらに考えるなら、「女性専用車両ムカつく」という情念からことを起こしているという点では、ある種の「一人称性」の主です。
 ということは、もう少し右寄りにマッピングしてやってもいいのでは……という気も、しなくはありません。
 しかし同時に、ドクさべのドクさべたる所以は、「考えのなさ」「自分の見えてなさ」、そして実力行使に出る「DQNぽさ」。となると久米師匠に冠した「明らかに自分の足下の見えていない「三人称」的な感覚の主の過ち」、「何も考えていない」、「考えることに慣れていないため、ふと湧いた着想を検討することもなく振り回しているだけ」といったフレーズを、彼にも冠したい衝動に駆られる。
 彼の心の声は、迷った挙句「俺のカメラ写り、どうかな…?」としました。恐らくですが、彼の頭の中にはユーチューバーとして快哉を浴びる自分について以外は、何も入っていない。自己とは、他者との違和の集積です。シンジ君もアムロも他人とうまくやっていけないが故に、自意識に目覚めた存在でした。そこへ持ってきてドクさべにそうしたナイーブさは恐らく、ない。彼の口から出てくる「男性差別」はそうした葛藤の中から出てきたものでは恐らく、ないでしょう。その意味で彼は純粋な利己主義者、他者という存在のない者、逆に、だからこそ普通に他者とうまくやっていける者として、オタクとは違うだろうと判断しました。逆に言えば「親/反オタク」でも「親/反フェミ」ですらもない、ゼロ地点にマッピングするべき人なのかもしれませんが……。

*10 ドクさべについては随分語っているのですが、2018年度のものとしては、「ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件

 番外勝負・インセル/ミグタウ

 さて、ここでちょっと番外編です。
 とはいえ、インセルとミグタウについては、先にも挙げた八田師匠の記事に書いた通りです。
「インセル」は「女にモテない」という現状に対して、脊髄反射的な攻撃性を発露する人たち(いや、それが本当なのかは大いに疑問ですが、ひとまず、八田師匠の指摘が正しいものとしましょう)。だから彼らは内省がない。フェミをこそ批判すべきだと判断する知性、戦略性もない。ドクさべとほぼ同じ、「反フェミ/反オタク」です。だから彼らの心の声は「女死ね!「フェミ」? 何それ美味しいの」なのです。
 ひるがえって「ミグタウ」は脊髄反射的なテロに意味がないと悟り、拳を振り下ろした人たち。だから彼らは「……………。」と沈黙してしまっている。攻撃性を発露する前にいったん考えてみて、それは意味がないと悟った内省的な人たちと言えましょう。
「女にモテない」ことそのものが不幸の根源というよりは、それを原因として、極めて不幸な状況へと叩き落とされたのが彼らです。その意味では彼らが「弱者男性」である、というより、彼らはそもそも「男性の置かれた立場は弱いもの」という現実に気づいてしまった人々でである、と言い換えた方が、話がわかりやすいように思います。
 だから彼らは「反フェミ/親オタク」。兵頭新児に極めて近しい人たちです。
 しかし見てみると、両者の位置は割に離れている。
 まあ、別段深く考えたわけではなく「俺が正義だ」という大前提をスタート地点にしてマッピングしたらこうなっただけなのですが……ですが、敢えて言うならば、彼らは上野千鶴子師匠に「マスターベーションしながら死んでいけ」と言われ「はい」と頷いた人たちです。
 そこだけすくい上げれば、実はテラケイ師匠と変わらないとも言える。彼らがぼくとテラケイ師匠のちょうど中間地点に位置しているのは、それが理由です。
 ぼくは前回、かなり唐突に
ぼくが「牛丼福祉論」と並列させて論じてきた「本田透の兵器利用」者たちは案の定、ミグタウの称揚を始めています

 などと書きました。いつもお読みいただいている方以外には不親切な文章になってしまいましたが、これにもう少しだけ補足しますと、

・上野千鶴子師匠の子分、古市憲寿師匠が「牛丼屋が安いのは日本型福祉の形」みたいなことを言っていた。まさに弱者を殺すリベラルの面目躍如だ。
・しかし、オタクの中のリベラルの中には近しいことを言う者がいる。「オタクの性は二次元で完結しており、女性様に加害しないのでエラい。まさに上野様の『マスターベーションだけして死んでいけ』との命を従順に守る者であり、オタクこそフェミ様の奴隷になるのにふさわしい存在だ」というのが、そのふざけた主張だ。
・これは、ある意味で本田透『電波男』を著しく非道い形で曲解したものであると言える。

 とまー、そんな感じです*11
 ミグタウは、(八田師匠の言を信じるなら)単にあきらめて撤退しているだけで、そこにポジティブな意味は見出せない。いえ、本当に本田透の全盛期であれば、オタク文化、萌えもまた全盛期であり、ある種のハンストの意味あいもなくはなかったけれども、そうした時代が過ぎ去ったことも、既に語りました*12
 となると、ぼくたちは「インセル」にも「ミグタウ」にも価値を見出すことはできない。

*11 詳しくは「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」を参照。
*12「3D彼女 リアルガール  ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)
3D彼女 リアルガール ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)(その2)

 十番勝負・兵頭新児

 ――というわけで、まとめです。
 ぼくとミグタウの差違は、どこにあるか。
 外から観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもミグタウも「何もせず、ぼーっとしてる人」ということになるはずですから。
 しかし一方、ならばぼくとインセルの差違は、どこにあるのか。
 主張を観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもインセルも「昔に戻せと言ってる人」ということになるはずですから。
 そう、そういうことなわけです。
 一応の答えとして、「主張はインセル、行動はミグタウ」というのがまあ、今のところ最も望ましいスタンスではないかと、ぼくは考えます。
 男性問題(及び目下の地球のあらゆる問題)の処方箋について、ぼくはいつも「一昔前のジェンダー観に従った生き方をする」ことを提唱しているかと思います。
 これに対してジェンダーフリー的なスタンスの人たちから、「男性ジェンダーのネガティビティを温存する気か」との文句をねじ込まれることがありますが、「そんなこと知るかボケ」以外に回答は、ない。
 そもそも「一昔前のジェンダー観」以外のジェンダー観がこの世に現出したことは、今まで一度もないのですから、それ以外に選択肢がないのはもう、自明です。女性たちがある日突然目覚め、みな主夫を養ってくれる世界が訪れるとお思いになるのであれば、死ぬまでそれをお待ちいただければいいハナシですが、そんな与太につきあう気は、ぼくにはない。
 少なくとも「一昔前のジェンダー観」の世界は今よりも遙かにマシでしょうし、そしてその上で、「しかしそれでもまだなお、男性は夥しいネガティビティを背負っている」ことに自覚的であればいい。
(もう一つ、前回のコメントにも書きましたが、高度経済成長期の男性たちの生命は極めて蔑ろにされていたはずですが、最早人権観が更新されており、ここで男女のジェンダー観が一気に戻っても、そこまでのブラックな状態には戻らないのではないかというのが、ぼくの予想です)
 つまり、「有言不実行」というスタンスを、即ち「自分自身の内面には十全に自覚的になり、それを外に向けて発信すると同時に、急進的な振る舞いは控えるべきだ、というスタンスをひとまずは取っておくのが一番利口なのではないか、というのが「親オタク/反フェミ」であるぼくの意見であるわけです。

 というわけで、まあ、普段はあんまり語る機会のない「男性解放」のためのスタンスについて、ちょっと語ってみました。
「フェミニズム」とは男性にとって「他所の価値観に自らを預けることで正義になれる魔法」です。オタク文化とは、その辺の普通の男の子たちが、自分の内面を紙に描き出した、史上初の表現。やや乱暴ですが、ぼくはいつもそう表現してきました。両者はどう考えても真逆で、重ねあわせることは絶対にできないものです。ぼくたちはそこからしか、まずは「自分がここにいる」という立ち位置からしか、発言するべきではないのです。
 というわけで、まあ、今年もよろしくお願いします。