大武道2は、例によって玉石混合のメンバーが登場しているが、それが編集者の狙いであるかもしれないので、それについての批判はしてもしょうがない。
従って、私が本書に取材を提案した、倉本成春先生、横山雅始先生、沈剛先生など、やる側の先生達と武術について、考察していこう。
まず、お三方ともスタンスは異なるが、いずれも格闘技を超えた、ルール無用の武術を長く修行者されてきた先生達だ。
その見識は深く、いずれの先生も私自身がそれぞれの分野で師と仰ぐ方々である。
倉本先生は言うまでもなく、ルール無用の戦いを想定し、空手に囚われず、ありとあらゆる反則技を追求。対武器や対複数の戦いも想定し研究された為、そのノウハウは「ザ・プロテクト」という一般人向けの護身術の体系にまとめられた。「空手は突き蹴りの他に投げも寝技も目つきもある。だから実戦的だ、と語る空手家が時にいるが、果たしてその人達は投げや寝技や目つきを日頃、練習しているのか?練習もしていなければ、いざという時、そんな技が出るわけがない。」と語るほど、倉本先生は実戦に対しては、謙虚なリアリストである。
横山先生も、家伝の柔術の他、空手なども学んだ後、今日的な護身術の功朗法をまとめらた。フランスの軍や特殊部隊から指導を頼まれるほど、功朗法の実用性は海外で高く評価されている。しかし、横山先生はそれでも満足せず、日本の伝統武術は本当の実戦で有効だったのかを検証するために、ガチ甲冑合戦という壮大なシュミレーションを思いつき、本当に実現してしまった。その結果、これまでの常識を覆す様々な検証結果が出たが、その詳しい報告は今、制作中のガチ甲冑合戦の本で行う予定である。
沈剛先生は、中国太極拳界で、最強と言われた伝説の馬岳梁氏に子供の頃から学んでいた呉式太極拳の正統伝承者だ。太極拳というと、穏やかで人と戦わないイメージがある。確かに相手の力に逆らわない戦い方をする、という意味では穏やかなのだが、その戦い方を実証してきた伝統が、呉式太極拳にはある。そもそも、呉艦泉という達人が始めたから呉式と言うのだが、新しい流派を名乗ると次々と挑戦者が現れるのが動乱期の中国だ。田舎ではなく、上海という都会で新しい太極拳流派を起こしたため、呉艦泉とその一番弟子の馬岳梁氏は、挑戦者を悉く倒し、呉式の強さを実証してきた。特に馬岳梁氏は、倒した相手の治療代まで出していた為、特約の病院があったくらいだ。また、馬岳梁氏だけでなく、呉艦泉の息子達も東南アジアで呉式を広める為に、素手で若い武術家と公開の場で試合したりしている。まさに呉式太極拳は太極拳界の実戦派であり、リアリズムを追求する伝統がある。
世界各地でこうしたリアリズムを追求した結果、独特の伝統武術が伝えられることになる。今回で言えば、横山先生と沈剛先生が伝統武術の追求者となるかもしれないが、では、それらの共通点とは何か?
今回、巌流島には世界各地の伝統武術家が集合した。カポエイラからセネガル相撲まで、バラエティに富んでおり、共通点はないように見える。しかし、日本でも中国でもヨーロッパでもアフリカでも伝統武術には共通項がある。それは、武術が何故必要とされたかを考えればすぐに分かる。戦争と護身である。
戦争は必ず集団で行われ、武器を使う。
従って伝統武術は武器術が主であり、素手は従。素手の技術も対武器、対複数がメインになる。一番後回しになるのが、素手と素手の戦いだ。確かに護身にはこうした局面もある。しかし、一対一で、正々堂々と戦うような局面はそもそも伝統武術は設定していない。暴漢が一人だと思わせ、近づき、後で仲間が出てきたり、武器を懐から出したりするのは、今日でも暴漢の常套手段だ。
従ってリアリズムを追求する世界の伝統武術には寝技はない。打撃か投げ技かの違いはあっても、全て立ち技である。集団戦でも、武器との戦いでも、暴漢の撃退でも、自分から寝技に持ち込んで有利になる局面はないからだ。無論、こちらが望まなくても倒されたり、抑えこまれたりする局面はあり、そこから脱出する技術は必要である。しかし、それは総合ルールのように寝技で決着をつけようという技術ではない。リングの中で、危険な打撃技が禁止され、武器も使えない。仲間も助けてはいけない。という、伝統武術家には極めて非現実的に見えるルールが総合格闘技だ。こうしたルールが日本では一番実戦的と考えるファンが多いが、リアリズムを追求する武術家達はそうは思わない。これが、世界の伝統武術の実戦観の共通項であり、決して私一人が特異な考え方をしているわけではない。
私はバーリトゥードが日本に知られだした頃から、その設定の不自然さを主張していたが、時代が早過ぎて一般ファンには当然理解されなかった。近年、伝統武術の再評価の中で、徐々にファンの間でもこうした認識は広がり始めているようだ。
私は武術も格闘技も哲学として捉えているが、哲学とは、平たく言えば、認識力を深め、広げていく作業のことだ。私も格闘技を学び始めの頃はルールに捉われた戦いしかイメージできなかった。また、格闘技ルールで使えない技術はイコール実戦的ではない技術として軽んじていた。
しかし、自ら伝統武術を学び続け、自分の身体と動きが深化していくにつれ、認識も広がり、変わっていく。逆に言えば、練習をしていない人達に対して、この認識の広がりを伝えることは非常に困難である。
唯一、練習をしていない人にも、納得させる手段があるとしたら、視覚的な擬似体験、すなわち試合を見せることだろう。
その意味では、今回の巌流島興行は非常に意義があったと思う。寝技でのサブミッションが無くなるだけで、世界のリアルな武術観にすこし近づいた。
世界の伝統武術家達が結果的に活躍できたのも、このルールと無関係ではないだろう。寝技でサブミッションありの総合格闘家同士の試合では相変わらず寝技で勝負していたが、私にはその時間が非常に不自然に感じられた。ちなみに、横山先生は、合戦で寝技は自殺行為と断言している。今の時代、合戦は行われないだろう、などと思ってはいけない。最新の喧嘩や護身を世界の軍や特殊部隊などに指導しているローコンバットのルーク・ホロウェイ先生も横山先生と同じ教えをしている。犯罪者はまず間違いなく刃物や銃を隠し持っており、寝技に持ち込んだら、下からの刃物攻撃に全く対処できないからだ。
こうした世界のリアリズムを元に伝統武術は成立している。
このリアリズムを一般ファンに伝えることが、巌流島ならできるかもしれない。大武道も、本来ならその理論的援護の役割を期待したいところだが、これは難しそうだ。こっちは私自身がやるしかなさそうである。
(ID:27174273)
正に我が意を得たりです。目から鱗が落ちます。
山田さんにはどんどんこの実戦観を一般に啓蒙していって欲しい。
それが出来るのは山田さんだけです。
私としてはグラウンドでのサブミッションだけでなく、
「両者グラウンド状態での打撃技・投げ技・関節技・絞め技」全般を禁止して欲しいです。
「抑え技」については、寝技に持ち込まれた時に脱出出来るだけの捌く技術ぐらいはあってもいいので、
「寝技15秒以内のポジショニング」だけはたしなみとして身につけてもいい。
試合的にも「倒れた時ブレイクでいちいち中断される不満」も無くなりますから。
マウントパンチも要りません。マウントなんて1VS複数の場合他の奴に頭蹴られて終わり。
重視すべきは佐山理論通り「すぐに立って対処出来る、ニーオンザベリーとニーオンザバックからのパウンド」です。
これらは膝を相手の腹(背中)の上に置いているので床に着いていない。よって有効。
この法則発見が私のルールの味噌。皆が手探りで探しているのはこれだと気付いた。
「寝技一切禁止ルール」は言い換えると「一方以上がスタンド状態なら反則以外のあらゆる攻撃が認められるルール」です。
山田さんには釈迦に説法ですね。すいません。
ちなみに山田さんは「顔面横肘、サカボ、踏みつけ」導入には反対の立場ですか?
私は「寝技一切禁止」という大胆な事をやるなら選手や審判や視聴者にも理解し易い様にその他の制約は極力排除した方がいいという考えです。余計な混乱はなるべく避けて分かり易くしたいですから。
審判は「一方以上が足裏以外の部位を床に着けていない状態かどうか」だけをチェックすればいいんです。
まあこれについては議論の余地有りですかね。
寝技はあくまで「素手の1対1限定テク」。
でも実戦は1対1とは限らず1対複数かも知れないし、相手はナイフ隠し持ってるかも知れない。
そんな状況では寝技に頼れない。
巌流島はもう「立ち技」に針振り切って、クラヴマガ・システマ・シラット・ジークンドー・戸隠流忍術等「立ち技護身術系」が活躍出来る舞台を作るべきなんです。
田村ルールや岩倉ルールはただの「ジャケットMMA」であって論外。
「武術の実戦性を追求する巌流島」のコンセプト的には「本末転倒」です。
「寝技30秒でのサブミッションぐらいいいじゃないか」とか程度の問題ではなく方向性の問題。
「寝技護身術系」の結論はUFC等で既に出ている。これから始まる巌流島が今からそれと同じ結論を目指す事に何の意味があんの?って事。
どうせなら今までとは違う最強の概念を提示しましょうよって事。
田村ルールはあくまで「特別ルール」。一般化する事はあり得ない。
ターザンが早速MMA関係者の論理に取り込まれてますが術中にはまってどうすんのよ!(>0<)/