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――小佐野さんが原さんと初めて出会ったのはいつですか?
小佐野 もともと『ゴング』は月刊誌だったので、その当時のボクは記者ではなく編集者だから、あまり選手と接する機会は少なかったんですよ。『ゴング』が週刊になったのは84年の春。そのとき全日本プロレスの担当記者になったんです。
――初担当が全日本だったんですね。
小佐野 原さんはすでに全日本に参戦してたんだけど、その頃に会話をした記憶がほとんどないんですよ。というのは、僕が全日本担当になったのが4月で、原さんは10月に失踪していたから。
――それは天龍同盟に起きた騒動とはまたべつの失踪なんですよね。
小佐野 そのときはね、原さんが地元・長崎の興行に関係していたと思うんですよ。でも、会場に行ったら何の宣伝もされず放置されていて。普通はポスターが貼られたり、チケットを売ったりするでしょ。営業活動が何もされてなくて原さんもどこかに消えちゃったんですよね。
――いったい何があったんですか?
小佐野 わからない。たぶん何か問題があったんでしょうけど、原さんはズボラな人ではないので。
――原さんも地元で営業活動に専念するにはいきませんから、誰かしらに委託はしますよね。
小佐野 そうそう。全日本から原さんが興行を買って、それで誰かに頼んでいたと思うんですよ。で、原さんと親しくなったのは、その失踪後に“ヒットマン”として全日本に戻ってきてから。あれは85年の山形、夏前だったかなあ。長州力vs石川敬士のシングルマッチに私服姿の阿修羅・原が乱入して長州を血だるまにするという事件が起きたんです。
――その事件から原さんは“ヒットマン”と呼ばれるようになったんですね。
小佐野 その後も乱入を繰り返す原さんを追いかけていくうちにコミュケーションが取れるようになって。原さんが走り去る際に、ホテルの部屋番号を告げていくというね(笑)。
――ハハハハハハ!
小佐野 原さんとしても乱入乱入でさびしいわけですよね。携帯もない時代で孤独なわけですから。そうやって話をするようになったんですね
――失踪しているあいだは何をやっていたんですかね?
小佐野 わからない。聞いたことないですね。結婚してるし、息子さんも娘さんもいたんですけどね。
――そこはミステリーなんですね。
小佐野 そのへんの事情は若僧だったからわからないですが、原さんは風貌とは裏腹にラクビーの国際選抜に選ばれたこともある超エリートじゃないですか。根性論の人じゃないんですよ。合理的にいかに自分の運動能力が引き出すかを考える人。ヒットマンの絵作りのために岩でベンチプレスする姿は撮りましたけど(笑)。
――ハハハハハハ!
小佐野 一生懸命頑張る当たり前。みんなが頑張る中でどうやったら上に行けるかを考える。風貌だけを見ると昭和のプロレスラーですけど、じつはスポーツ最先端の人だったんです。それにあの人は女性にもモテますよ。渋くて優しくて、けっこうロマンチストでピュアな一面もあって。
――そんな原さんがどんな経緯で天龍さんとの運命の合体を果たすんですか?
小佐野 原さんはもともとは所属していた国際プロレスが潰れて全日本にはフリーとして参戦したんですけど、その第一戦が後楽園ホールの天龍源一郎戦だったんです。そのあとに客が全然入っていない大分の荷揚町の会場で天龍さんとUN戦をやったんですけど。原さんいわく「ラクビーでイングランドと戦ったときのような感覚があった」そうなんですよ。
――へえー! それが地方会場だったところがまたいいですね(笑)。
小佐野 勝ち負けじゃなくて、純粋に真っ直ぐラクビーボールを追っていたあの感覚を味わいたかった。それでプロレスに来たら天龍戦で味わえたという。その感覚が忘れられなくて、ヒットマン時代は天龍さんや長州力を狙ってたんですよね。全日本としては国際血盟軍でラッシャー木村さん、鶴見(五郎)さんと同じ括りなんですけど。原さん本人は「血盟軍ではなくてフリーだから」と言っていて。
――そこには強い拘りがあったんですね。
小佐野 それで87年春に長州力が全日本を離脱して新日本に戻ったことで、天龍さんが相当落ち込むわけですよ。スランプに陥った。
――天龍さんにとって自分を燃えさせてくれる存在が長州力だったんですね。
小佐野 そのときに原さんが天龍さんのことを心配していて。「最近、源ちゃんどうなの? こないだ道場で顔を見たら元気がなかったよ」って。天龍さんと原さんは敵同士だから一緒に行動もしないし、会話もしなかったんです。
――そこは徹底してたんですね。
小佐野 ホテルも日本人と外国人は別々で、巡業バスも正規軍、ガイジン、ジャパンプロレスの3つあったのかな。国際血盟軍はガイジンのバスに乗っていたけど、原さんは「フリー」を主張しているから単独行動をしてたんですよね。
――その気概は素晴らしいですね(笑)。
小佐野 シリーズ開幕戦の小山ゆうえんちに向かう新幹線の中で原さんにばったり会って。原さんは「源ちゃんが新しいアクションを起こすなら一緒にやるのも手かな」と言ってたんです。シングルをやるといっても年に1~2試合しかチャンスがない。一緒に組んで競い合うという手もあるから。そうしたら、天龍さんが小山ゆうえんちの開幕戦で「鶴龍コンビの解散」を口にしたんです。天龍さんの考えでは、鶴龍コンビを解散してジャンボ鶴田、輪島(大士)の反目に回ったほうが全日本は盛り上がると。
――「日本人vs外国人」の世界に戻ったらダメだろう、と。
小佐野 でも、馬場さんは天龍さんの正規軍離脱を許さない。シリーズのカードは決まってるし、勝手なことは許されないと。その問題を解決したのは試合ですよ。
――試合で解決ですか?
小佐野 金沢でやった猛虎七番勝負の天龍vsタイガーマスクが本当に素晴らしい試合だったんですよ。馬場さんも大絶賛で「こういう試合をやれば下の選手は育つんだ」っていうことに気付いて、天龍さんの正規軍離脱を許したんですよね。
――そもそも長州力離脱を受けて、馬場さんにはどういうビジョンを描いてたんですか?
小佐野 具体的になかったと思う。長州がいなくなってまだ2シリーズ目ということもあったし。それで馬場さんからOKが出たということで、シリーズ中のオフ日の6月4日、名古屋のシャンピアホテルで天龍さんと原さんが会談を持ったんです。それが龍原砲の始まりですね。
――フロント主導ではなく、選手が自分たちで構築していく面白さがありますねぇ。
小佐野 当時はリング上のマイクパフォーマンスも珍しかったですからね。いまは誰もマイクを持つじゃないですか。あの頃は長州の“噛ませ犬発言”くらいでしたから。めったにないことだから、あれだけのインパクトがあったんですよ。
――当時のマイクは“心の叫び”だったんですね。
小佐野 ボクはその天龍さんと原さんの初会合に行けなかったんです。出張費を出してもらえなかったから(笑)。結局、その2日後の6月6日に長門市スポーツセンターで初めて龍原砲が実現して輪島・大熊元司組と戦ったんです。
――それもまた渋いカードですね(笑)。
小佐野 そこは会社に掛け合って、山口宇部まで飛行機で飛んで、そこからローカル線を乗り継いで取材に行きましたよ(笑)。
作/アカツキ
――龍原砲結成後の天龍さんたちも、それからの移動は電車だったそうですね。
小佐野 そうそう。彼らはふたりだけの軍団だから移動バスがないんですよね。川田(利明)、冬木(弘道)が合流して天龍同盟というユニットになってからしばらくして専用のバスができましたけど。それまでは天龍さんと原さんが時刻表片手に電車を乗り継ぐか、電車で行けない場所はリング屋さんのトラックに乗り込むわけですよ。
――車寅次郎の世界ですね(笑)。
小佐野 ボクも一緒に電車で旅をしましたよ。川田が入った最初の頃は、レンタカーを借りて川田が運転手をやってましたよね(笑)。
――ガイジンバスに乗ればいいのに、そこはちゃんと線を引くんですね。
小佐野 とにかく正規軍や外国人レスラーと口を利かない。顔を合わせるのはリング上だけ。そうしないと相手のことをおもいきり殴れないから。
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