いよいよ資料も執筆メモも全部揃ったんで、、、、と、そんなモン揃えたことが今まで一回もなかったんで自分でも驚いているんだが「刑事コロンボ研究」の執筆に取り掛かった(因みに「第二昭和の日本映画音楽」は、来年からリスタートしますんで、来年書き下ろし2冊出ます)。
還暦ちゅうのは読んで字の如くどこかに還るわけで、自覚レベルでも「確かになー」と思うことも多々あるのだけれども、還るばっかりじゃタイムマシーンになってしまう。
「全く新しい」ことも生じるわけで、僕にとってそれは何とコンサバなのであった。そもそも<いよいよ資料も執筆メモも全部揃ったんで>とか言っちゃってそんなモン揃えたことねえわ今まで一回も!!!と自分でも驚いているんだが、検索はしまくるは、翻訳ソフトは使いまくるは、関連動画は買いまくるわ、しかも単著!!
まだ誰にも言わないで、というか単なる計画の段階でぜーんぜん未定だ、普通こういう研究本とか論文とかは平均そんなモンだということで以下
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コメント
(著者)
>>11
ぶっちゃけ、あと2回っす笑(2年ジャストかな)。書籍化されてない、我ながら良いなと思う連載、には伊勢丹通信「デパート愛者の告白」、サックス&ブラスマガジンの「わたしがスタジオミュージシャンだった頃」があるんですが、クチから出まかせがすげえいっぱい売れたら、書籍化の話がくるのだろうな。と思っています笑
>>10
2回目のコメントにて少し経ったら削除します。
「危険な女たち」の主題歌、
「mysterieux」歌手:安野ともこさんの曲中で
菊地さんが、「細野さんの曲みたい」と思ったその瞬間は聴いてみてどこだったかあまり分からず、そのピンポイントを本当は伺いたかったのですが、やっぱり失礼か、、と思い感想まで。
三国志ラヴ・テーマ[Theme】 細野晴臣[Haruomi Hosono] Jit Ene [Tamao Koike]などはさすがにすぐ
細野さんぽい、と分かるのですが、聖子ちゃんの天国三部作は暫くしてからびっくり気味に知りました;; 大瀧詠一さんや山下達郎さんは誰の曲かすぐわかるのに。。
ただ、ライブ動画で、ユーミンが
「細野さん、ドラム叩けるの〜?」って
聞いたすぐ後に、ほんの少し叩いたドラムの
弾み具合がめちゃめちゃカッコよく、細野さんは、
やはり天才中の天才だとあらためて思ったりしていました。アンビエント曲も好きですが、あの低い声で歌う「Smile」のカバーすごく好きです。
話題がすっ飛びますが、
「Gucci」 2025年クルーズコレクションのキャンペーンで、デボラ・ハリーを起用、撮影はフォトグラファー/映画監督のナン・ゴールディン。ファッション関係はめったに見ないのですが、映像に菊地さん(およびウディ・アレン)感がある気がして、何度も観てしまいました。
伊勢丹通信「デパート愛者の告白」、サックス&ブラスマガジンの「わたしがスタジオミュージシャンだった頃」
全部ヤバいですね、読みたいものです。私の住む街の本屋さんは紀伊国屋書店で「クチから出まかせ」は発売日に積み上げられていまして、定期的に見ていたら、もうあと一冊になっていました、さすがの集英社さんです!
西田敏行さんのご冥福をお祈り致します。
以前、菊地さんに阿部サダオ演技話を
ラジオデイズで聴けて本当に良かったです。
(著者)
>>13
あーいやいや、削らなくてもいいですよ。
「細野風」に気がついたのは、出だしからです。いわゆるYEN初期の頃の分厚いテクノサウンド、例えばサンディの「イーティンプレジュアー」とかと全く同じですね。おそらく使用実機も同じだったでしょう。細野さんはサウンドの変遷という意味では日本で一番かもしれないぐらいなので、全ての期を追うのは難しいと思いますが笑。
西田敏行さんは、後継としては阿部サダヲがいますが、何せ森繁久弥の遺伝子を受け継ぐ、おそらく最後の人物だと思いますね。本当に上手い。残念ながら肥満から心疾患といったルートからは逃れられませんでしたが、ご冥福をお祈り申し上げます。
(ID:28386738)
“友達と会社の人だけに囲まれた窒息社会” とは、本当にその通りですね。映画はもちろんですが、実写やアニメなのか/音楽ライブまたは演劇形式なのかは関係なく、21世紀前半に「ファンダム」と呼称される場はあらかじめ “友達と会社の人だけ" になっている気がします。ただのファンでさえ “会社の人” のようになっていて、Z級の代物がリアルタイムで公開されてそこそこの酷評を受けたときでさえ「え、そうかなあ(ピキピキ)。俺はこの作品のテーマ性をはっきりと読み取れたけどなあ(ピキピキ)」みたいな社員ふうのファンがweb上にツイートだのノートだのを吐き出す。というお決まりの段取りが根付いてから、もう随分長い気がします。
コロナ期の現場レベルでの混乱を経て、ハリウッド/日本国産の区別を問わずヤバい案件の作品がそこそこ出たと思うのですが(私が先日に観たアロノフスキー『ザ・ホエール』なんか、アメリカ版『さや侍』みたいな内容でした)、前述の“友達と会社の人だけ" な雰囲気が、極端な絶賛も酷評もあらかじめ避けさせる構造が(少なくとも去年末あたりまでの映画作品には)常にあったと思います。これも大衆的な解離(抑圧でない)の一種でしょうか? 少なくとも、スターウォーズやアナ雪新作の前評判が社員のサクラによって底を上げられており、実際に公開されてみれば酷評の嵐(敢えて死語を用いれば「ステマ乙」)の時期はすでに過ぎ、『ジョーカー』の新作もヴェネツィアで鳴物入りで公開された直後に扱き下ろされているようなので(ちなみにこの件に関して、私は “圧倒的成功体験を反復して得ようとしたホアキンが、2作目から新たに「ミュージカル」の要素を携えて現れたレディ・ガガの劇場型完璧主義の凄まじさによってポテンツを折られた" 結果としか思えなくて、端的にホアキンの状態が心配になってるんですが笑)、少なくとも「映画作品としてイタいものを突きつけられたときの解離感覚」は和らいでいるのかなと思いますが。ただ、「映画作品として痛い(精神や社会的な問題を個人のレベルに切り詰めたうえで共感させてくれる)ものに耽溺したがるソフト自傷感覚」はコロナ期前から根付いていて、それが『ジョーカー』1作目の、端的に特殊な外傷性神経精神疾患者の話を、ろくに身体的虐待も外傷因の精神病も負っていない人たちが「わたしも共感しちゃっていいんだ!」とヒステリックに誤読するような受容のしかたを導いたのかも、と思っています。「作品と観客との不幸なすれ違い」は、受容する側の自己愛エネルギーを元手にしてますます激しくなっているように感じられますね。
菊地さんの映画評論は、作品の質に関する冷静な分析と・それを受容する(した)側の心的機制までをも含む、他には得難いスタイルだと思うので、日記の内容とは遠い近作映画の話まで書いてしまいました。しかし、80年代のZ級映画を観ているうちに細野さんの未聴楽曲に出くわすとは、物凄い体験ですね(笑)