ビュロ菊だより

<菊地成孔の日記 2024年10月7日記す>

2024/10/07 10:00 投稿

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  「天使乃恥部」が配信され、「クチから出まかせ」が出て、あれをやって、これをやって、これもやって、あれをして、これもして、もっともっとして、ああして、こうして、これでしばらくリリパ以外は人前に立つライブもしばらくない、という状態になって、いよいよ「<刑事コロンボ>研究」の執筆に着手したら、前の日記から10日近く経っていて本当にびっくりした。

 

 体感で5日ぐらいしか経っていない。倍速で動いていたのである。今まで黙っていて、というか、隠すつもりもなかったのだけれども、この10日の間に、自動車免許も取得していたので、倍速感が強かったんだろう。

 

 にしても、免許取得後の最初の運転が、法的には盗難したに近いタクシーで、しかも犯罪者と同乗する事になるとは思わなんだ。更にしかも、である。書いても信じては頂けないだろうな、と思いながら書くしかないのだが、僕、犯罪者、僕らとは全く関係のない運転手、の3人が午前3時の首都高を逆走の時速130キロで爆走した理由は、拉致られた元AKB48の前田敦子さんを救出するためなのであった。

 

 前田さんは「素敵なダイナマイトスキャンダル」の完成披露の舞台挨拶で1度だけお会いしたことがある。この映画は本当に出演者が豪華で、今をときめく左大臣、柄本佑さん、今をときめくドライブマイカー三浦透子さんを始め、ほとんど有名な人しか出ていない、今は俳優業は廃業されたのかどうなのか、知る由もない(由はあるよな検索だ。しないが)神聖かまってちゃんの方もいらして、しかも撮影現場では左大臣(何故、伊周の発狂するほどの呪詛を受けても熱一つ出さないのか)としか一緒でなかったので、舞台挨拶はエグい事になったわけだ。

 

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コメント

 菊地さんのエッセイのなかで何故か数ヶ月おきに読み返してしまう数篇があり、「アンチエイジングと凍結都市」(フェリックス・ガタリの投身記事が出ているやつ)などが該当するのですが、今回の記事も同様の夢遊感触を覚えました(笑)。
 半ば私事ですが、『天使乃恥部(アルバム)』を繰り返し聴くようになってからやけに(自分の中の因果律が)はっきりした夢を頻繁に見るようになり、これも音楽の力かなと思っています。悪夢は「既に意識のなかで折り合いがついている記憶の再集成品」だと解っているので見ても全く同様しないのですが、今まで自分が出会った過去の人々がいやに感じ良く・かつ夢にキャスティングされている理由までもがはっきり理解できる類の夢ばかり見ると、若干ソワソワします。今回の記事はそんな感覚を他者側から分けてもらっているような読み心地でした(笑)。

『天使乃恥部(楽曲)』を初めて聴いたとき、「失礼、演奏中ですが〜」のナレーションがQ/N/K『暗殺の森』での「失礼、ラップの途中ですが〜」のくだりに似ているなあ、と当然にすぎることを思ったのですが、実際のところこれら2曲には並べられて然るべき何かが備わっているのではと、ここ数日間折に触れて聴き返しておりました。
 菊地成孔さんおよびN/Kのお仕事では、たとえばオーニソロジー『Brocken Spectre』とサンダーボルトOST『色悪』が、それぞれ作詞者は異なるはずなのに「監督はどこ」・「アンタは誰?」のように疑問副詞の語尾で切る特徴的な文を共通して持つような、「あの時期の仕事たちの磁場」とでも呼びうるものが現れるように思います。それと同じようなものが『暗殺の森』から『天使乃恥部』にいたるまでの時期にも働いていて、前述の「唐突なナレーション」はその表層的な符号ではないかと。そしてこの2曲におけるナレーションは、『暗殺の森』では声の司会によって演奏が中断されず・その声をも音の一部として楽曲が平然と続行してゆき/『天使乃恥部』ではナレーションで演奏が全休止する。と正反対の用法になっており、この違いを前回ご返信いただいた “聴き手の聴取時間が円環を閉じるように設計された・終結のない予兆の連続、かなり設計的に実行された・時間感覚の潰乱” と重ね合わせながら考えています。

 こういう「唐突なナレーション」は、エリオットの『荒地』第2部で、女性2人のパブでの会話に閉店を告げる店員の声が何度も被さる、という先例を見出すことができますが、しかし菊地成孔さんの音楽作品に既存の詩法をそのまま適用して鑑賞するのは避けたく思います(私自身、いわゆる「音楽にあこがれすぎた現代詩人」の鬱陶しさを知っているだけに)。それよりもベルトルッチ『暗殺の森』ラスト付近での、「今まで外部の事由に押しつけることでなんとか免れてきた予兆が、ついに裸形のまま襲ってきて、ここからは自分ひとりでその徴候に立ち向かわねばならない」感じが、そのまま楽曲『暗殺の森』と『天使乃恥部』にも通ずるのではないかと思っています。もちろん楽曲『暗殺の森』は映画『暗殺の森』と(タイトル以外に)直接的な相関性を持ってはいませんが、狂わんばかりの予兆がずっとこちらに迫ってきて・しかしついには到達しない(発狂にまでは至らせてくれない)あの感覚は共通しており、かつ『天使乃恥部』にも別の形で組み込まれたのでは。「今まで外部の事由に押しつけることでなんとか免れてきた予兆(略)と立ち向かわねばならない」感じは、大江健三郎の60年代半ばの中編作品あたりにも見出すことができますが、しかし大江やエリオットといった名前は菊地さんのバックグラウンドとは食い合わせが悪いように思われ、とすれば近似の性質はやはり筒井康隆さんあたりにあるのかな。というのが現時点での所感です。このコメント自体が夢見のように雑然としていることは、『天使乃恥部』の作品的特性に関わるものとしてご寛恕いただきたく。

 いきなり飛躍しますが、曲名を『森の暗殺』とテレコにすると、こちらとしては異様にしっくりくる語感が得られます。というのは「森」は「死」を意味するラテン語に掛けられた人物名として大江健三郎の作品にたびたび登場するからです。『森[mori]の暗殺』=「死が暗殺にくる」感じは『暗殺の森』・『天使乃恥部』両楽曲にそれぞれ異なって宿っているように思われ、もちろん「死が暗殺にくる」は日本語として典型的な悪文ですが、先述した「狂わんばかりの予兆がついには到達しない」感覚の表現としては的確です。この発狂しそうだけどさせてくれない “終結のない予兆の連続” は、「色男/拷問/砂糖漬け」の楽団名で謂われていたことそのものだったのかな、そもそもN/Kがドミュニスターズ2ndの冒頭で言っていた “狂気の安らかさ/正気の狂おしさ” の両方が別の比率で配合されているのが『暗殺の森』と『天使乃恥部』の2曲であるように感じられるな……
 
 などと思っていましたら、先日アップされた『天使乃恥部』MVが『暗殺の森』の風野さんによるものだったので、これをへんな答え合わせと思わず、音楽や映像や詞がもたらす豊かな現実の分裂/統合感覚を楽しもうと思います。

No.1 2時間前
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