音源が出て本が出たので、大人しくしているのが昭和のマナーだと思う。次にステージに立つのは約1ヶ月後だし(ドミューン1回とDJ2回ありますけどね「DJブースはオレのステージだぜ」とか言いませんよ実質の中卒だけれども、そこまでバカじゃないんだから!)、今年は特に一息つく暇もなく(「あ、コロンボ本ですね!」という方がいてもおかしくない。というか、確かにメインそれなんだけれども)、あの企画この企画が水面下で進行しているので、むしろライブ演奏は大いなる愉しみなのであーる(「楽器の演奏を英語でプレイというので、元々演奏は遊びなのだ」とか言いませんよ実質中、以下同文)。
なので、音源が出回り、本が出回っている状態は、横目で見るっつうか、例えば書店に行って、「クチから出まかせ」の棚に行き、うおーついに出たかとか言っちゃって感無量になるとか、どんな人が買っているのだろう?と、本屋さんに箱男みたいなダ
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コメント
(著者)
>>10
箱(完成プロダクツ)はまたあります!!笑
ヴォーカルは、去年、死にかけた時笑、「あ、オレ、歌上手くなるな」と思ったんですよね笑。
菊地さん、こんばんは。
『天使乃恥部』、最高です!
『色悪』は、LOS VAN VANを超えていますね。
再録音の曲も、まるで新曲のようです。
質問ですが、最後の『このアルバムの哲学は、エミリオ・デル・プラードス。』というのは、どういう意味でしょうか。
戦前のスペインの詩人で編集者ださそうですが、教えていただけないでしょうか。
(著者)
>>15
痛風さんありがとうございます!!
エミリオ・デル・プラードスはそこそこ有名な人物ですが、意味は全くありません笑。
(ID:28386738)
数ヶ月前の話なのですが、「cook って、たしかドラッグディーラー界隈発祥のスラングで、 “最高に純度の高いメタンフェタミンを精製=料理してやったぜ”的な意味で使われてたのが “最高にヤバいパフォーマンスをやって=料理してやったぜ”としてヒップホップ界隈でも使われるようになった、はずだ、けど由来が正しいか自信ないな」と思って検索したところ(「スラング辞典」なんてものを印刷して製本すること自体が矛盾なので、こればかりは検索に頼らねばならないのがキツいところです)、 cook はそもそも「うまくやる、やっつける」として使われ、学校のテストで良い点を取ったくらいの意味でも流通していることを知らされ、あれっアフロアメリカン文化由来じゃなかったのか、と当惑したことがありました。
これはおそらく、マジョリティ=白人側が廃棄した残飯の中から自分たちにも喰える文化を cook する20世紀中盤アフロアメリカンのソウルフード文化が、文字通り cook の用法をも新しく料理した、と理解したい欲望が自分の中に在った有ったからだと思います。菊地さんも本文でチャーリー・パーカーに言及しておられますが、マルコムXの自伝でもパーカーと同じフライドチキン屋 Jimmy's Chicken Shack で働いていた過去が書かれていて、とても心地よく驚いたのを憶えています(同じ店舗だったのかまでは解りませんが)。
以上を踏まえると、自分が半分ほど誤解していた cook=ヤバくやっつけるの意味は、むしろ roast (蒸して焼くほどひどくこき下ろす)のほうに近く、ダーティーダズンに代表されるアフロアメリカン文化の側面が、パーカーやマルコムの「フライドチキン屋の中でヤバい自分を捏ね上げる」姿に結びつき、そこで扱われている鶏肉がいつしか揚げのみならず蒸し焼きでも cook されるよう連想された、だから cook と roast がほぼ同じ意味として(ジャズやヒップホップを通して)記憶されていたのかな、と筋道が立ちました。スラングなるものの生成過程は得てしてこういうものなのでしょうか。
脱線を許されたく思いながら書きますが、数ヶ月ほど前にX(旧Twitter)で「AIがあなたの全投稿履歴を分析して、そこで見出されたいくつかの諸傾向について慇懃無礼に酷評します」というアプリ? が流行して、その名前が Roast というものでした。利用者たちがそれをどのように面白がっているか見てみましたが、「自分が好きなモノだけに耽溺するのも自分にとって不快な刺激をブロックするのにも疲れた人々が、お遊び程度に自分へ向けられる強烈な罵言を摂取して、 “それさえも本気にしないワタシ”の演舞を公開アカウント上で見せる」ものが大半で、これは自身の解離さえも演劇的な振る舞いとして見せびらかすパフォーマンス(より正確には、常態化した解離感をチケットとして入場できる劇場での演目)のようなものであり、20世紀中盤アフロアメリカン文化の「口汚さ」とは遠く隔たったものだと思いました。もっとも、「他人を罵るのも他人から罵られるのも疲れた、だから興味があるのは自分の内面だけ、でもそこで聞こえてくる自責の声さえワタシは相手にしないのさ」的な心性は、現代USAのアフロアメリカンのみならず大衆的に蔓延しているとも思いますが。
音楽と料理の(非)相同性の話だけで物凄く面白かったので、『天使乃恥部』についての感想はまた別の機会に書かせていただきます。本当に、「21世紀のローリングトゥエンティーズ」の音楽として凄まじい結晶度のアルバムだと思います。
同時に、かねてより菊地さんの旧作には必ず仕込まれていた「時間感覚の変容」の要素が、ちょっと、尋常でない強度に極まっていると思います。先日ようやく「まず新曲のみ聴きなおそうモード」から「じゃあ旧曲リメイクも聴きなおそうモード」に移れたのですが、『Killing Time』だけ怖すぎて2度目以降聴けていません。
この「時間感覚の変容」による恐怖が一体何に似ているのか、戦争なのか疫病なのか経済恐慌なのかそれとも全く別の何かか、についての感覚を手放さずにおこうと思いました。おそらくこれも、「今回のローリングトゥエンティーズは前のローリングトゥエンティーズと同じである(しかし同じではない)」の「(非)相同性」にまつわるものかと思います。ダブルバインドであり、アンビバレンスでもありますが、ミスティフィカシオンを仕掛ける立場のトリックスターはどこにも見当たらない(「いや自分には見えている」と主張するのは半端な賢者か陰謀論者だけ)、という意味で正しく2020年代に必要な音楽だと思います。このアルバムにリアルタイムで出会えたこと(もちろん、この作品は「リアルタイム」の観念を音楽的に融解させる要素が中核に据えられているのですが)を本当に幸いに思います。