>>4 ご返信をありがとうございます。 “<クック>には、言語としては当然過去完了形があるのに、あまり娯楽用語に使われない。という一種の偏向には意味がある・「調理済みの料理」「作り置きの料理」は端的に、冷たく悲しい側面がある” とのご指摘で、動詞はその現在形や過去完了系によって時制のみならず温度感までもが変わってくる、という事実に初めて気付かされました。たしかに fuck の現在形は目の前の肉体を相手にした直行の暴力性に満ちていますが、受動態・過去完了系の fucked になると messed up の最極端系のようなもので、過去にやらかしたことの “冷たく悲しい側面” が強調されています。副詞として使われる fucking は、ただ現在においてのみ有効な溌剌(つまり即物性)の表現に寄っていますね。 ポランスキーやリンチの映画には、過去完了系・受動態である cooked や fucked の “冷たく悲しい側面” の感覚が間違いなく在ると思います。これから英文を読んだり聴いたりする際には、活用による時制や温度感の変化にも注意してみます。 日本国人もかなりのところ西欧的ですから、私などは “欧州的な反復と予兆=恐怖” をそのままヘーゲル弁証法的な「否定性」として捉え・それを和声学の「不調和から解決状態に移りたいという欲望」になぞらえてしまいがちで、なおかつそれとは別のエンジンを備えた音楽としてファンク=モーダリティを見立てているふしがあります。つまり「和声的解決によって享受される音楽の歓び(少なくともバークリーメソッド経由で20世紀ポピュラーミュージックに根付いたぶん)は、もちろん消費され尽くすのは不可能だとしても、ひとまず過去の歴史には属したか?」の問題が “欧州的な反復と予兆=恐怖” の(弁証法的な方法以外での)無化や解消と感覚的に関わっているか・いないかの論点ですが、そこで “仏教では無常感と言いますが、そこにはゾンディ的な「反復」や「予兆」の概念があまり見受けられません” のご指摘が助けになるように思われます。仏教の死生観はもちろん「終わりのない生まれ変わりの連続」であり「同一性の生の反復」ではなく、私などはこの「連続性・無常感=反恐怖」をモーダリティに/「欧州的な反復と予兆=恐怖」をコーダリティに結びつけたい欲望に駆られます(もちろんモードとコードいずれのエンジンの駆動にも反復が要されますが、その質を区別しないまま「反復」とだけ言うと厳密性を損なうので)。 (ところで浅学の身では “ゾンディ的な” の意味を量りかねたのですが、これはハンガリー出身の精神科医の術後と解釈してよろしいでしょうか?) 「予兆(または徴候)」は猟師や探偵の備える非言語的な知であり・また人間が精神病(とくに統合失調症)を発する際の回路にも関わっていると中井久夫さんが述べておられましたが、菊地さんの音楽作品を聴いていると、西欧的な知が積極的に抑圧または止揚したがる対象の「予兆(または徴候)」が、否定性をもっては全く取り扱われていないことです。これは菊地さんのなかでコーダルな音楽への否定性が存在しないこと(=和声的解決によって享受される音楽の歓びが歴史に属したこと:とくに『憂鬱と官能』以降のお仕事によって?)を意味するのか、すぐには判りかねますが、少なくとも前回のアルバム『戦前と戦後』最後の曲が「既存の曲を歌唱しながらも未知の徴候が穏やかに続く」かのような『たゞひとゝき』だったこととは関係があるかなと思います。 先日に再録版『Killing Time』を聴き直しました。擦弦楽器陣の演奏を Larks' Tongues in Aspic 期のキング・クリムゾンのように聴いてしまうのはプログレ小僧として思春期を過ごした私の悪癖ですが、実際にキング・クリムゾン最終ツアー版のLarks' Tongues in Aspic Pt.1 を聴き直してみたところ、こちらはぺぺ・トルメント・アスカラールのように異様な時間感覚は孕まれておらず、むしろ20世紀カタログの忠実な再現に力点が置かれているように思われました。これと比べると再録版『Killing Time』の演奏は怖すぎます(もちろん最上の賛辞です笑)。 先に述べた「日本的と欧州的」の話と関係あることですが、70年代ごろのキング・クリムゾン等がバルトーク等を使って取り入れんとした「中央アジアまたは中東性」は、やはり20世紀的な博物学音楽の範疇にすっぽり回収されてしまったように思われ(ピーター・ゲイブリエルやスティング等の尽力による「ワールドミュージック」のオーヴァーグラウンドポップス分野での提供も含む)、ぺぺの音楽には(上辺は似て聴こえても)それとは全く別の時間が流れており、直接関係するのがモーダリティ/コーダリティ、連続性/反復性、または「予兆(または徴候)」などの要素なのかもしれない、と思いました。 (重ねて余計な連想を。堂本剛さんの『shamanippon』がリリースされたとき「これはクリムゾンでありファンカデリックだ!」みたいな文脈で絶賛されていたのですが、いやそれとは全く別の方向で良いものでしょこれは? と思いつつも私自身それに代わる表現を見つけられずにいました。しかしぺぺの新譜に触発されるかたちで思いましたが、あれは西欧=弁証法・和声的でない別の時間感覚を、神仏習合的=奈良的に? 表現しようしたアルバムだったのかもしれません。いずれにしろ、発表当初は「オリエンタリズム」的な音楽だとばかり思われていたものが実は全く別の時間を指向していた例は、活動当初のぺぺがピアソラの亜流と錯誤されたのと同じ程度にはありふれて在ったはずだと思います。) 雑想をまとめますと、現在私が『天使乃恥部』に関して一番喰えていないと自覚している部位はタイトル曲の電化要素なので、これから何度でも新たに聴き直してみます。とくに『M/D』での、ジミ・ヘンドリックスの天使的モーダリティが磁化・電化とどのように関わっていたかのくだりを読み直すと新たに何かが解りそうな気がしています。このように心身を賦活してくれる音楽との出会いは、本当に貴重なことです。
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>>4
ご返信をありがとうございます。
“<クック>には、言語としては当然過去完了形があるのに、あまり娯楽用語に使われない。という一種の偏向には意味がある・「調理済みの料理」「作り置きの料理」は端的に、冷たく悲しい側面がある” とのご指摘で、動詞はその現在形や過去完了系によって時制のみならず温度感までもが変わってくる、という事実に初めて気付かされました。たしかに fuck の現在形は目の前の肉体を相手にした直行の暴力性に満ちていますが、受動態・過去完了系の fucked になると messed up の最極端系のようなもので、過去にやらかしたことの “冷たく悲しい側面” が強調されています。副詞として使われる fucking は、ただ現在においてのみ有効な溌剌(つまり即物性)の表現に寄っていますね。
ポランスキーやリンチの映画には、過去完了系・受動態である cooked や fucked の “冷たく悲しい側面” の感覚が間違いなく在ると思います。これから英文を読んだり聴いたりする際には、活用による時制や温度感の変化にも注意してみます。
日本国人もかなりのところ西欧的ですから、私などは “欧州的な反復と予兆=恐怖” をそのままヘーゲル弁証法的な「否定性」として捉え・それを和声学の「不調和から解決状態に移りたいという欲望」になぞらえてしまいがちで、なおかつそれとは別のエンジンを備えた音楽としてファンク=モーダリティを見立てているふしがあります。つまり「和声的解決によって享受される音楽の歓び(少なくともバークリーメソッド経由で20世紀ポピュラーミュージックに根付いたぶん)は、もちろん消費され尽くすのは不可能だとしても、ひとまず過去の歴史には属したか?」の問題が “欧州的な反復と予兆=恐怖” の(弁証法的な方法以外での)無化や解消と感覚的に関わっているか・いないかの論点ですが、そこで “仏教では無常感と言いますが、そこにはゾンディ的な「反復」や「予兆」の概念があまり見受けられません” のご指摘が助けになるように思われます。仏教の死生観はもちろん「終わりのない生まれ変わりの連続」であり「同一性の生の反復」ではなく、私などはこの「連続性・無常感=反恐怖」をモーダリティに/「欧州的な反復と予兆=恐怖」をコーダリティに結びつけたい欲望に駆られます(もちろんモードとコードいずれのエンジンの駆動にも反復が要されますが、その質を区別しないまま「反復」とだけ言うと厳密性を損なうので)。
(ところで浅学の身では “ゾンディ的な” の意味を量りかねたのですが、これはハンガリー出身の精神科医の術後と解釈してよろしいでしょうか?)
「予兆(または徴候)」は猟師や探偵の備える非言語的な知であり・また人間が精神病(とくに統合失調症)を発する際の回路にも関わっていると中井久夫さんが述べておられましたが、菊地さんの音楽作品を聴いていると、西欧的な知が積極的に抑圧または止揚したがる対象の「予兆(または徴候)」が、否定性をもっては全く取り扱われていないことです。これは菊地さんのなかでコーダルな音楽への否定性が存在しないこと(=和声的解決によって享受される音楽の歓びが歴史に属したこと:とくに『憂鬱と官能』以降のお仕事によって?)を意味するのか、すぐには判りかねますが、少なくとも前回のアルバム『戦前と戦後』最後の曲が「既存の曲を歌唱しながらも未知の徴候が穏やかに続く」かのような『たゞひとゝき』だったこととは関係があるかなと思います。
先日に再録版『Killing Time』を聴き直しました。擦弦楽器陣の演奏を Larks' Tongues in Aspic 期のキング・クリムゾンのように聴いてしまうのはプログレ小僧として思春期を過ごした私の悪癖ですが、実際にキング・クリムゾン最終ツアー版のLarks' Tongues in Aspic Pt.1 を聴き直してみたところ、こちらはぺぺ・トルメント・アスカラールのように異様な時間感覚は孕まれておらず、むしろ20世紀カタログの忠実な再現に力点が置かれているように思われました。これと比べると再録版『Killing Time』の演奏は怖すぎます(もちろん最上の賛辞です笑)。
先に述べた「日本的と欧州的」の話と関係あることですが、70年代ごろのキング・クリムゾン等がバルトーク等を使って取り入れんとした「中央アジアまたは中東性」は、やはり20世紀的な博物学音楽の範疇にすっぽり回収されてしまったように思われ(ピーター・ゲイブリエルやスティング等の尽力による「ワールドミュージック」のオーヴァーグラウンドポップス分野での提供も含む)、ぺぺの音楽には(上辺は似て聴こえても)それとは全く別の時間が流れており、直接関係するのがモーダリティ/コーダリティ、連続性/反復性、または「予兆(または徴候)」などの要素なのかもしれない、と思いました。
(重ねて余計な連想を。堂本剛さんの『shamanippon』がリリースされたとき「これはクリムゾンでありファンカデリックだ!」みたいな文脈で絶賛されていたのですが、いやそれとは全く別の方向で良いものでしょこれは? と思いつつも私自身それに代わる表現を見つけられずにいました。しかしぺぺの新譜に触発されるかたちで思いましたが、あれは西欧=弁証法・和声的でない別の時間感覚を、神仏習合的=奈良的に? 表現しようしたアルバムだったのかもしれません。いずれにしろ、発表当初は「オリエンタリズム」的な音楽だとばかり思われていたものが実は全く別の時間を指向していた例は、活動当初のぺぺがピアソラの亜流と錯誤されたのと同じ程度にはありふれて在ったはずだと思います。)
雑想をまとめますと、現在私が『天使乃恥部』に関して一番喰えていないと自覚している部位はタイトル曲の電化要素なので、これから何度でも新たに聴き直してみます。とくに『M/D』での、ジミ・ヘンドリックスの天使的モーダリティが磁化・電化とどのように関わっていたかのくだりを読み直すと新たに何かが解りそうな気がしています。このように心身を賦活してくれる音楽との出会いは、本当に貴重なことです。