田畑 佑樹 のコメント

“友達と会社の人だけに囲まれた窒息社会” とは、本当にその通りですね。映画はもちろんですが、実写やアニメなのか/音楽ライブまたは演劇形式なのかは関係なく、21世紀前半に「ファンダム」と呼称される場はあらかじめ “友達と会社の人だけ" になっている気がします。ただのファンでさえ “会社の人” のようになっていて、Z級の代物がリアルタイムで公開されてそこそこの酷評を受けたときでさえ「え、そうかなあ(ピキピキ)。俺はこの作品のテーマ性をはっきりと読み取れたけどなあ(ピキピキ)」みたいな社員ふうのファンがweb上にツイートだのノートだのを吐き出す。というお決まりの段取りが根付いてから、もう随分長い気がします。

 コロナ期の現場レベルでの混乱を経て、ハリウッド/日本国産の区別を問わずヤバい案件の作品がそこそこ出たと思うのですが(私が先日に観たアロノフスキー『ザ・ホエール』なんか、アメリカ版『さや侍』みたいな内容でした)、前述の“友達と会社の人だけ" な雰囲気が、極端な絶賛も酷評もあらかじめ避けさせる構造が(少なくとも去年末あたりまでの映画作品には)常にあったと思います。これも大衆的な解離(抑圧でない)の一種でしょうか? 少なくとも、スターウォーズやアナ雪新作の前評判が社員のサクラによって底を上げられており、実際に公開されてみれば酷評の嵐(敢えて死語を用いれば「ステマ乙」)の時期はすでに過ぎ、『ジョーカー』の新作もヴェネツィアで鳴物入りで公開された直後に扱き下ろされているようなので(ちなみにこの件に関して、私は “圧倒的成功体験を反復して得ようとしたホアキンが、2作目から新たに「ミュージカル」の要素を携えて現れたレディ・ガガの劇場型完璧主義の凄まじさによってポテンツを折られた" 結果としか思えなくて、端的にホアキンの状態が心配になってるんですが笑)、少なくとも「映画作品としてイタいものを突きつけられたときの解離感覚」は和らいでいるのかなと思いますが。ただ、「映画作品として痛い(精神や社会的な問題を個人のレベルに切り詰めたうえで共感させてくれる)ものに耽溺したがるソフト自傷感覚」はコロナ期前から根付いていて、それが『ジョーカー』1作目の、端的に特殊な外傷性神経精神疾患者の話を、ろくに身体的虐待も外傷因の精神病も負っていない人たちが「わたしも共感しちゃっていいんだ!」とヒステリックに誤読するような受容のしかたを導いたのかも、と思っています。「作品と観客との不幸なすれ違い」は、受容する側の自己愛エネルギーを元手にしてますます激しくなっているように感じられますね。

 菊地さんの映画評論は、作品の質に関する冷静な分析と・それを受容する(した)側の心的機制までをも含む、他には得難いスタイルだと思うので、日記の内容とは遠い近作映画の話まで書いてしまいました。しかし、80年代のZ級映画を観ているうちに細野さんの未聴楽曲に出くわすとは、物凄い体験ですね(笑)

No.1 1ヶ月前

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