今回のジャーナリズムにおけるセクハラ問題の怪しさについて、わしのブログや『ライジング・ゴー宣』で、ようやく分かってくれる人が出てきたようだ。
さらに『よしりん辻説法』で攻めていく。
しかし、慰安婦問題のときとそっくりだな。
女は弱者で被害者、男は強者で加害者、女は善で、男は悪。
感情だけで凝り固まって反発し、論理がすっかり消滅する。
感情を押さえて、理路整然と反論を書けばいいのに、それはしない。
論理はないのだ!感情があるのみ!
誰かがセクハラがあったと言っている。
誰か知らないがムッキ――――!
セクハラという言葉を聞いたからムッキ――――!
話にならん。
今日の「報道ステーション」でも、ヒステリックに福田次官と麻生大臣を責め立てていたが、被害者の気持ちを考えろ、想像力がないと言うのみだ。
被害者の顔も名前も知らないのに、どうやって被害者を信じればいいのだ?
伊藤詩織さんは名乗り出て、著書まで書いたから信じたのだが、名乗り出られない被害者の気持ちを忖度せよと言われても絶対に無理だ。
「Me too」運動になっていない!
「私もよ」と名乗り出なければ話にならん。
テレビ朝日を信じろと言われても、まったく無理だ。
被害者とされる女性記者が名乗り出て、記者会見を開けば、わしの考えが変わるかもしれん。
女は弱者よ!守られるべきよ!
人前に出たら傷つくのよ!恐いのよ!出られないわ!
そんなことを言っても、伊藤詩織という女性を見た今では、信じられない。
レイプとセクハラでは、被害のレベルが違う。
組織に隠れる女性はジャーナリストには向かない。
一人の有能な官僚を葬ったのだ。
その損失に相応しい案件だったのか、証明してほしい。
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