昨日はみなぼんと会議をした。
仕事の現状、単行本の自己評価、みなぼんがSNSで
調査した人々の言動とその評価、今後の仕事のやり方、
みなぼんが関心を持っているドラマや本や音楽のことなど、
いろいろ聞いて、それに対する分析をする。

その会議の中で、わしが何かあれば必ず「女性の敵」とか、
悪人に仕立てられるのはもうしょうがないだろうという結論に
至った。
人がわしに持ってしまった「偏見」は、もうぬぐえない。
自分の考えを、一旦、相対化して、相手の言動をよく調べて、
自分に誤りがないかどうか考えてみるという行為なんか
人には出来ない。

「プライドと偏見」について考察すると、誰もが自分が正しいと
思っており、論破されても、認めるよりは、「意固地なプライド」
を優先する。
「騎士道的なプライド」は良いものだが、「意固地なプライド」は
成長を阻害する。 

人の成長には苦痛が伴うが、苦痛の原因は意固地な
プライドでしかなく、そんなものは捨てればいいだけなのに、
人はそれを捨てる勇気を持たない。
意固地なプライドを破壊するのは、人にとっては存在理由の
崩壊にも繋がりかねないものであり、年をとってからそれを
やれる勇気は持たない人の方が多い。 

自己の存在理由があやふやな人は圧倒的に多いから、
意固地なプライドは捨てられない。
意固地なプライドを持つ人が自己正当化のために誰かに
「偏見」を持った場合は、もうその「偏見」は消えない。
「プライドと偏見」が硬く結びついて、その人の存在理由と
なっているからだ。
意固地なプライドに執着する人は、自分で墓穴を掘って
いるだけなので、気の毒な人だ。
憐れんであげよう。それしかない。

 

 

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