今朝のメルマガは予防医学研究者・石川善樹さんの連載『〈思想〉としての予防医学』の第9回をお届けします。今回は、人間の他の霊長類との違いは何かから始まり、本当の豊かさとは何かを考察していきます。
▼執筆者プロフィール
石川善樹(いしかわ・よしき)
(株)Campus for H共同創業者。広島県生まれ。医学博士。東京大学医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして研究し、常に「最新」かつ「最善」の健康情報を提供している。専門分野は、行動科学、ヘルスコミュニケーション、統計解析等。ビジネスパーソン対象の講演や、雑誌、テレビへの出演も多数。NHK「NEWS WEB」第3期ネットナビゲーター。
著書に『最後のダイエット』、『友だちの数で寿命はきまる』(マガジンハウス)など。
本メルマガで連載中の『〈思想〉としての予防医学』これまでの記事一覧はこちらのリンクから。
さて、今回でこの連載も9回目になりました。
前回までは、予防医学とはどんな学問であり、そこからどんな社会の姿が見えてくるかを語ってきました。今回は少し私と予防医学の関わりから話してみたいと思います。
以前、私はハーバード大学に留学していたとき、心臓病の研究をしている先生に、こんなことを尋ねたことがありました。
「今の研究が全て上手くいって、心臓病がなくなったとする。そうすると次に人類はどうなるんですか?」
先生は少し驚いた表情になって、こう答えました――「そんなこと考えたこともないし、考える必要もない」と。しかし、本当にそうなのでしょうか。目の前の患者の治療がどう影響をおよぼすのかについて、やはりイマジネーションがないと言わざるをえないのではないでしょうか。当事の私は、「病気と戦っている自分を正義だと思い込んで思考停止しているのではないか」と思った記憶があります。
実際、予防医学でよく出てくる問題として、「一体、なにを予防しているのか」問題というものがあります。何かの病気を予防した結果が、かえって次の病気を呼び寄せる結果につながることは往々にしてあるのです。
例えば、タバコを吸っていると肺がんになって死ぬ確率が高まる――これはよく知られた事実です。しかし、たばこをやめた途端に今度は、心臓病で死ぬ確率が高まることはあまり知られていません。しかも、死ぬときの苦痛は心臓病のほうが遥かに大きいものです。ガンは一般的にずっと元気を保ったまま、最後の数ヶ月を苦しむというものですが、心臓病は死ぬまでに何度も苦痛を繰り返します。さらに言えば治療費も大量にかかるので、社会のコストの観点からは、正直なところタバコを吸って亡くなってもらったほうが“ありがたい”ということさえ言う経済学者もいます。
もちろん、だから喫煙を推奨したいというのではありません。つまりは何が害で何がメリットになるのかというのは、そう簡単に判断できないということです。実際、研究の場では、○○をすると「健康によい」という結果も「健康に悪い」という結果も両方出ることがしばしばです。一個一個の情報だけを追いかけていても、その情報がどこまで正しいのかはわからないのです。
ちなみに、そこで生まれたのが「メタアナリシス」という概念です。これは予防医学の現在の研究を考える上で最重要とも言える概念です。簡単にではありますが説明しましょう。
といっても、まさに名前の通り、メタに研究結果を分析するのがこの手法です。
これを使うと、一個一個の研究結果はバラついていても、それらを統合して分析することで各々の効果がどの程度のものかを理解することが出来ます。しかも、このメタアナリシスには「回帰分析」を適用することが出来ます。すると、この「メタ回帰分析」によって、ある予防方法がA人では効くがB人では効かないとか、大人には効くけど子どもには効かない、とかのように「誰にどのくらい効くか」が回答できるようになるのです。
言わば、「人間」に関する現象について何が本質的に正しく、何が間違っているかをかなりの精度で教えてくれる手法なのです。そして、この手法が重要なものとなってることからも分かるように、予防医学とは様々な分野の学問の成果を利用して判断を下すための学問なのです。
かつて、まだ科学者が自然哲学者と名乗っていた頃、アイザック・ニュートンにしてもガリレオ・ガリレイにしても、いろいろな学問を総合的に捉えることで世の中を理解しようとしました。専門分化が進んだのは、科学という概念が出てきてからのことです。しかし、今や総合や統合のほうが価値を持つ場面が世の中で登場し始めているのも事実です。予防医学とはまさにその典型であり、そういう時代の要請の中で注目を浴びている学問なのだと思います。
その意味で、私は科学者であるよりは哲学者でありたいと思っています。
一方で、そんな学問である予防医学に私が惹かれるのは、ある意味で性格の問題もあるように思います。
私は子供の頃から、「普通の人が何気なくやること」がよくわからない苦しみを抱えてきました。なぜ自分には毎日食事が三食当然のように出てくるのか、なぜクリスマスプレゼントやお年玉やお小遣いがもらえる家庭があるのか(私自身は一度ももらおうと思ったことがありませんでした)、そういう基本的なことがどうしても分からなかったのです。
「欲しいものはある?」と聞かれても、「自分が欲しいもの」が何かわかりませんでした。人に対して「ちゃんと考えろ」と言う人をみると、「ではこの人は“考える”ということを真剣に考えているのか」と思いました。端的に言って、私はどうも「人間がよくわからない」というところがあるのだと思います。
そう考えてみると、私自身の予防医学に懸ける情熱の根幹には、ただ「健康」を考えるだけではなくて、「人間とはなにか?」を知りたいという問いがあるように思います。
1.人間の本質は共同体間の贈与にある
人間とは何か?――この問いについては様々なアプローチがありますが、霊長類の研究から一つ面白い報告があります。それは300種類くらいいる霊長類の中で、人間だけが自分の子供でもなく同じコミュニティでもない、外のコミュニティに対してエサを「贈与」できるということです。
現在の研究では、初期の人類が長距離移動を可能にしたのは、この性質があったためだという仮説が立てられています。というのも、長距離移動を続けるためには立ち寄ったコミュニティで、食事を貰う必要があるからです。そして、この複数のコミュニティを長距離移動で繋いでいくことで、人は新しいアイディアを伝播させて、知性を発達させたのではないかと考えられているのです。
この話は大脳生理学からも裏付けられるものかもしれません。実は人間の脳は「困っている人を助ける」ことで、気持ちがポジティブになるという研究結果があるのです。
ちなみに、この研究結果の面白いところは、単に困っている人に「かわいそうに」と思うだけでは、むしろ気持ちがネガティブになってしまうことです。同情や共感だけでは、気持ちが落ち込むだけなのです。ところが、「この困っている人を助けてあげたい」と思うとき、人間の脳はとてつもなくポジティブに働き出すのです。
もしかしたら、人間の脳は「見ず知らずの赤の他人に贈与する」ことを喜びと感じるように進化していくことで、最適な生存戦略を獲得していたのかもしれません。
そもそも種としての人類の特徴は、必ずしも弱肉強食の社会ではないことです。霊長類の中でもサルなどは弱肉強食そのものですが、ゴリラなどは強者と弱者が対峙した場合でも食べ物やメスを譲りあうことがしばしばあるそうです。人間の社会もそういう「優しい社会」としての側面は、やはりふんだんにあるように思います。
面白いのは、この「困った人を助けることに喜びを覚える」機能をお坊さんたちが活かしていることです。
彼らは脳内でわざわざ苦しんでいる人々の姿を思い浮かべて、彼らを救いたいと考えます。そのことによって、実は非常に喜びにあふれたリラックスした状態を得ているのです。このリラックスした状態は、以前にもこの連載で書いた「マインドフルネス」そのものなのです。
しかし、近年の大脳生理学の研究でもう一つの面白い結果が浮かび上がってきました。
それは、お坊さんのような生活とは最もかけ離れたところにいる、エクストリームスポーツの選手たちが、どうもお坊さんと同じ脳の状態をつくりあげているようだということなのです。
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