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“2次元”メディアアートはもう死んでいる――「触れる空中ディスプレイ」は「映像装置」を越える(落合陽一『魔法使いの研究室』vol.2「映像と物質」) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.407 ☆

2015/09/10 07:00 投稿

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“2次元”メディアアートはもう死んでいる
――「触れる空中ディスプレイ」は
「映像装置」を越える
落合陽一・魔法使いの研究室
vol.2「映像と物質」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.9.10 vol.407

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今朝のメルマガは、メディアアーティスト・落合陽一さんの連載「魔法使いの研究室」をお届けします! 筑波大学の助教に就任した落合さんの最新の研究・関心事を追いかける連続講義シリーズです。
第2回のテーマは「映像と物質」。20世紀に映像技術を手にした人類の「イメージと物体」の関係性はこれまでどう問われてきたのでしょうか。数々のメディアアート作品をみながらその内実に迫り、そして未来のアートの姿を予見します。

※この連載は、PLANETSチャンネルでのニコ生講義シリーズ「魔法使いの研究室」(第2回放送日:2015年6月5日)の内容を再構成したものです。(◎構成:真辺昂)


落合 こんにちは、落合陽一です。今日もMonsterを飲みながら人間性を捧げて研究をしています。さて「魔法使いの研究室」第二回ということですが、今日は「映像と物質」というテーマを選ばせていただきました。このタイトルは、本のタイトルからとったものなのですが、みなさんはこの本を読んだことがありますか? 

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生徒たち ……。

落合 誰も読んでいなかった(笑)。これは、1958年にシュレディンガーという人が書いた『精神と物質』という本です。僕はたしかM1かM2の時に読んだ記憶があります。「精神と物質」という二項対立は極めて重要なパラダイムで、「俺たちは物質的な身体を持っているけれど、それに対して精神はどれくらい自由なんだろう」みたいなことを、それこそデカルトの時代から人類はずっと考え続けてきました。

 今日は、その「精神と物質」というテーマで哲学的に扱ってきた問題を、21世紀風に「映像と物質」と読み替えて、これからのメディアやテクノロジー、あるいは人間と芸術の関わり方について考えていこうと思います。

 まずは、人類が映像技術を発明した、20世紀の夜明けから話をはじめていきましょう。(参考:魔法使いの研究室 vol.1「光」

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落合 さて、これは映像文化にとって極めて重要な二つの発明です。まず左にあるのが、1891年にエジソンが作ったキネトスコープという装置です。これは、ハコの中で大量の映像のカットがぐるぐる回っている機械で、それを上の穴から覗きこむと映像が見える仕組みになっています。

 そして1894年にキネトスコープに衝撃を受けたリュミエール兄弟が作ったのが右にあるキネマトグラフという装置です。これはキネトスコープとは違い、今の映画と同じように、壁に向けて映写することができたんです。この進化のおかげで、キネマトグラフは一気に売れ、普及しました。なぜならこいつを一箇所に映してやれば、大量の人間から一気にお金を徴収することができるからです。そしてリュミエール兄弟は、発明した後に、上映用の作品まで作りました。

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落合 それがこの「工場の出口」という世界初の実写映画です。といっても、その名の通り工場の出口を50秒くらい撮っているだけなんですけれど(笑)。

 当時、これを見たマクシム・ゴーリキーという作家が、その印象をこんなふうに書いています。「私は今のところリュミエール兄弟のこの発明を賞賛はしないが、その重要性は認識している。きっと、人間の生活と精神に影響を及ぼすであろう事を」。みなさん、これすごい先見性だと思いませんか?

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落合 実際、映像技術が普及したことによって、われわれの生活や精神は大きく変わっていきましたよね。例えば、映像が普及する前だったら、面白い話をしている人がいたとしてもそれをビデオで撮ろうとは思わないですよね。でも映像技術があったら、誰かのおしゃべりや動きとかを撮りたいと思うだろうし、それを遠くにいる人に伝えたいと思う。ほら、今みたいに授業を世界に中継できるのだって、映像技術があるからです。今となっては当たり前のことかもしれませんが、そんなふうに映像というものが社会に普及していく過程で、われわれの生活や精神というものはまるっきり変わっていったのです。

そしてその変化に最も敏感に反応したのがーーこれから紹介する、メディアアーティストと呼ばれる人たちでした。彼らはまさにそのメディアを通じた表現によって「映像と物質」の関係を問い続け、それをアートのジャンルとして確立させていきました。ひとつずつ紹介していきましょう。

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 まずは「メディアアートの父」と呼ばれるナム・ジュン・パイクの作品です。これは、上に仏像のような彫刻が置いてあって、その下にヌードの映像が映っているんだけど、この下のヌードの映像がいろんな人種の人に変わっていくんです。彫刻というものは本来は動かないものですよね。でもこの作品は、彫刻の中にビデオを組み込むことによって、イメージと物質の間にもう一枚イメージを作り込むという、メタ的なコンテクストを表現しているんです。そんなふうに、メディア性を維持したまま、彫刻の意味あいをどうやって変化させていくかというのは初期メディアアートでなされた、すごく面白い試みでした。

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落合 次に紹介するのはダムタイプの「memorandum」という作品です。これは、リアプロジェクションスクリーンに映像を出力しているんですが、その前で演者の人が動いたり踊ったりします。舞台に演者のシルエットが見えますよね。でも、途中からその影が演者の影なのか映像でつくられた影なのかがわからなくなってくるんです。イメージとしてしか存在しない影と、物体として存在する人間のシルエットが、インタラクションしながら芸術行為をやっている。これはそんなふうにメディア性と身体性を表現したごく初期の作品です。

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落合 次に紹介するのは、1999年に作られたダニエル・ロジンという人の「Wooden Mirror」という作品です。これは、木がカチャカチャと画素の代わりに動くことによってできる映像で、画面の前に立った人をカメラで撮影することによってインタラクティブ性を獲得した巨大な鏡です。これも本来映像である画素の部分を木という物体に変換してやることで、「映像とは何か」というような問いをわれわれに投げかけていると言えるでしょう。普通、こんなことを思いつかないですよね。そして映像に呼応する物体の存在を投げかけている。

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落合 これは筑波大学の大先輩、岩井俊雄さんの「映像装置としてのピアノ」という装置を作った作品で、ピアノがそのまま映像装置になり、映像装置によってピアノが奏でられるような先品です。たとえばMPIxIPM(Music Plays Images, Images Play Music)のライブで、「戦場のメリークリスマス」を坂本龍一さんが弾くと、ピアノから映像が照射されるというインスタレーションです。これ、本当にかっこいいですよね。ピアノって本来は音を出す装置ですが、これは音を使って光を作っているのだと言えると思います。こんなふうに、コンサートの中などで、どうやって映像と物質、空間の広がりというものに相互関係を持たせるかということが、1990年代のひとつのテーマだったわけです。

 しかし、それから20年が経った世界で今われわれがやっているPerfumeや紅白歌合戦の演出やどこかのライブって、これとなんら変わりないですよね。俺たちは90年代の表現を踏み越えて、コンピュータが発達した21世紀に何を作ることができるのか、ちゃんと考えなくちゃいけないのに、「メディアアートは死んだ」とか言われながら、なかなかその更新ができていないように思えます。ひとえにテクノロジー自体の更新が停滞し、ニューメディア(新しいメディア)と呼ばれるものが徐々に少なくなってきているのではないか、とも思います。ニューメディアが生まれなくなったらそもそも装置に対する解釈でものを作っていくしかなくなってしまう。

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落合 そんな中で文脈に依存した「それってただの屁理屈じゃん」とか「それってただのアイデア賞じゃん」みたいなしょぼいものをアートと呼んでいることが多いと思いませんか? さきほど紹介したダムタイプの古橋悌二さんの言葉に「芸術は可能か」という重要な問いかけがあるんですが、今作られているアイデア賞的な作品は、この「芸術は可能か」という問いにまったく答えられていないと思うんですよね。アートをどう定義するかとか、芸術という行為は本当に可能なのかというのは、メディアアートに限らずものすごく真剣に考えなくちゃいけないことだと思います。そして、当代の人類はどこまでやれたのかをつきつめなくてはいけない。

 そんな中で、芸術を問う行為そのもので世界を変えてしまったアーティストが現代アートの文脈には存在しました。

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落合 その代表がこの二人です。左にいるのがマルセル・デュシャンで、「泉」という作品ひとつで世界を変えてしまった人です。彼がしたことを簡単に言うと、普通の男子用小便器にサインをして美術館に飾ったのです。そしてそれが「これは芸術作品と言えるだろうか」という壮大な物議を醸したのです。

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落合 右で黒猫を抱えているのはジョン・ケージという音楽家で、「4分33秒」という作品が有名です。このタイトルにもある「4分33秒」という時間は、この楽曲で流れる無音の時間のことです。つまり彼は「4分33秒の無音」という音楽を作ったのです。


 彼らの登場は衝撃的で、それによって「芸術とは何か、と問う行為そのものが芸術なんじゃないか」という、まるで禅問答のようなものが芸術行為と認めざるを得なくなりました。芸術行為そのものをどうやってアップデートしていくかという、「文脈の生成そのもの」がアートとして成立するようになったのです。

 そのようにしてメディアアートも、メディア装置を発明することそれ自体も含めた芸術行為になっていきました。


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