今朝のメルマガは予防医学研究者・石川善樹さんの連載『〈思想〉としての予防医学』の第4回です。今回のテーマは「予防医学の戦後史」。今や世界に冠たる長寿大国となった日本ですが、その基礎を築いたのはGHQだった? 第二次大戦後に進駐してきた彼らが、日本人の〈健康〉に対してどのような介入を行ったのかを歴史的に紐解き、さらには「ポスト戦後の予防医学」を展望します!
石川善樹『〈思想〉としての予防医学』前回までの連載はこちらのリンクから。
■ GHQと予防医学
今回は、日本人のすべてが知っておくべきだと僕が考える、ある人物について話したいと思います。その人物の名前は――クロフォード・F・サムス。おそらく、その名前を知っている読者はほぼいないでしょう。しかし、この無名の米国人こそが、現代の日本人の高水準な衛生と健康を作った人物にほかなりません。
話は、終戦間もない頃の日本にさかのぼります。
第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、米国の占領下に置かれました。そこに降り立ったのが、マッカーサー率いるGHQです。マッカーサーの下には、日本再建の中核を担ったSix Men(6人の男たち)が組織されており、その一人が戦時中は軍医をしていたサムスでした。
当時の日本の総人口は8000万人。終戦とともに彼らが一斉に疎開先や戦地から引き揚げてきて、一気に人口の大移動が始まりました。
これだけの人間が移動すると、感染症の問題が深刻になります。しかし、連合国の方針はといえば、「放っておけ」というもの。日本の敗戦は自業自得であり、特にサポートする必要などない、というスタンスだったのです。しかし、当時の日本に降り立ったGHQの人間たちはその方針に耳を貸しませんでした。彼らは、日本人の健康状態を改善するために動き始めたのです。
例えば、サムスは米国の本国に頼み込んで、ヨーロッパの同盟国に渡すはずの食料を、わざわざ日本へと引っ張ってきました。そうして彼らが始めたのが「給食」です。
当時の日本の食事内容は実にひどいもので、まだ幼い子どもたちの健康状態を改善するには食事環境の改善しかないのは明白でした。ところが、そこでGHQが出してきた「給食」という施策に、当時の日本政府は大反対しました。「今ある食料は、働いている世代に渡すべきだ。10年後、20年後にしか国力にならない子供に食料を上げるのはおかしい」と言うのです。
そう主張する日本政府と、GHQは大げんかを繰り広げます。中でも怒ったのはサムスです。サムスは「もうお前らには頼らん」とばかりに、米国から脱脂粉乳を輸入してきて、東京で子どもたちに給食を与える実験を行いました。すると、たった1年で目覚ましい健康改善の成果が上がり、子どもたちの体格も一気に変わっていきました。
その成果を、今度はサムスは時の総理大臣・吉田茂のところに持って行きました。この吉田茂という人は、156cmの身長にコンプレックスを抱えていることで有名でした。サムスは吉田に説明します。なぜ日本人は身長が低いのか? それは栄養が足りないからだ、と。
瞬く間に、日本政府の方針は変わりました。あっという間に給食バンザイです。給食の全国的な導入が決まり、ついには無償で提供するべきだとの論が巻き起こりました。
ところが、ここでもサムスは猛反対したのです。彼は、給食を導入するのは良いが、無償で提供すべきではないと言いました。彼は、「給食を無料にしていたら、今度は朝食と夕食まで無料にせよと望むようになる。それでは日本人の自立性を奪うことになる」と主張しました。私たちが学校に給食費を納めることになったのは、このサムスの主張が通ったからです。
サムスは、「個人には価値がある」と強く信じていた人物だったそうです。彼は「天皇万歳」の日本人たちにその「個人」という価値観を植え付けることで、民主主義を日本に根づかせたいと考えていました。その一方でサムスは、どこまでも科学者らしい、謙虚な態度を貫いていました。というのもサムスは生前、「自分は正しいと信じることを日本で行ったが、それが本当に日本人にとって良いことだったかはわからない」とし、「それは歴史が証明してくれることだ」と語っていたそうです。
■ GHQは日本人の特性を調べ上げた
戦後、焼け野原にあった日本を再建したGHQのマッカーサーとシックスメン、とりわけこのサムスこそが、日本の予防医学の歴史の起源に当たる人々です。
それまでの日本には、予防医学の思想は存在しませんでした。戦前の日本は、ハエが飛び回り、ネズミが走り回り、蚊がうじゃうじゃといる、決して美しいとは言えない国でした。江戸時代の諺に、「良い料理人の台所にはハエがたかる」という言葉があるのがよい例です。ネズミも、仏教の輪廻転生の概念にのっとって、「おじいちゃんかもしれないから、殺すな」と注意される始末でした。
サムスはDDTを用いてそんな日本を徹底的に洗浄しました。その後、DDTには副作用があったと判明しますが、それでもなお、日本を現在のような綺麗な国に作り変えたのが彼とGHQであったのは確かです。
GHQの方針は徹底的なトップダウンの手法でした。それは彼らが日本を占領する際に、日本人の特性を調べたことにあります。GHQは日本の統治にあたって、大英帝国の植民地の統治術を研究したそうです。というのも、大英帝国は世界中を最少の武力で統治してきた歴史があり、マネジメント能力にとても長けているからです。企業でも、P&Gのような米国企業が途上国の攻め方が下手な一方で、ユニリーバのような英国企業はとても上手です。その秘密は、大英帝国には「占領国の国民性を徹底的に調べあげる」という方針があったからです。国民性を踏まえた手法こそが、最少のコストで最大の効力を発揮する統治術――GHQはそれを大英帝国に学び、さっそく日本文化の調査をはじめました。
そうしてGHQが日本人の国民性を調査した結果、たどりついた結論とは何だったのか?
それは、「勝てば官軍、負ければ賊軍」というオリエンタルマインドでした。
日本人は強いものにはおもねるが、弱いものには徹底的に厳しい。だからこそ、マッカーサーは天皇と総理大臣以外には原則的に会わなかったのです。それより下の人間と会うと、途端に日本人は見下してくるような国民だと、少なくとも彼らは判断したのです。そして、こういう国民性にぴったりな統治手法は、お上から強権的に一気に下へと方針をおろしていくことだと彼らは考えたのでした。
実は、第二次世界大戦後のアメリカの占領軍の統治は、日本以外ではあまりうまく行かなかったそうです。私が思うに、それはGHQが、日本再建にあたってその国民性を徹底的に調べあげ、日本人にふさわしい手法を選択したことにあるのだと思います。そのことは、彼らの改革の手法の成果にもあらわれています。
■ 生存権はGHQが制定した
このGHQの健康に対するこだわりがもっとも強く現れているのが、憲法第25条の「生存権」です。以下に、その内容を引用しましょう。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
この生存権については、しばしば朝日訴訟などの文脈で、当時の社会党が盛り込むことを主張したことで有名な「健康で文化的な最低限度の生活」の部分が語られがちです。しかし、予防医学の観点から言えば、実は2 の「国が国民の健康を見るべし」をうたう、一見して私たちには当たり前に思えてしまう一文こそが重要です。
実はこんな文言はアメリカの憲法などには全く存在していません。彼らは地方分権の国であり、まして国が国民の面倒を見る必要などないと考えるのです。しかし、サムスたちGHQは日本人の国民性の調査結果を考えたときに、「生存権」としてこの一文を入れることで、それを根拠に一挙にトップダウンで日本人の衛生環境を変革するべきだと考えたのでした。
そこで、サムスが創案したのが全国的な「保健所」のシステムです。
当時のGHQの合言葉は「革命は急げ、ゆっくり行けばつまずくぞ」だったと言います。彼らは日本の46都道府県800ヶ所に瞬く間に保健所を作り、一つの保健所につき10万人を見る想定で、当時の日本人8000万人全員の健康を管理することにしました。そうして、そこで徹底的に衛生状況の改善や健康教育などを行ったのです。
実はこの保健所のシステムは、サムスをして、「もっとも誇りとする仕事」と述べています。占領下という特殊な状況を活かし、他のいかなる国にも追従を許さない、きわめて近代的なシステムを作り上げたのです。
その結果はどうなったか?
――GHQが統治した6年の間に、日本人の平均寿命は25年も伸びました。
それほどわずかの期間に、8000万人もの人口の寿命をこれほど延ばしたというのは、人類史上に類を見ない偉業です。なにしろ、アメリカでは寿命を25年延ばすまでに10倍の60年がかかっているのです。
ちなみにその頃、アメリカでは「日本人をそんなに健康にして、一体どうするのだ?!」という批判があがっていました。というのも、そもそも日本人は人口が増えすぎたために、国内でまかなえなくなって、戦争に走ったと考えられていたからです。しかし、そのときもサムスは「日本人が健康になり、経済が活発になるのは、アメリカにとっても良いことのはずだ」と敢然と批判を切りかわしたと伝えられています。
そうして、サムスが築いた基盤の下、日本は着々と健康への道を歩み始め、ついに1978年、世界最高の長寿大国となるのです。
一体、このサムスという人物は何者だったのでしょうか?
彼のウィキペディアは英語圏にはありません。あるのは日本だけです。しかし、日本人の健康にこれほど大きな影響を与えた人間であるとは、ほとんどの日本人は認識していないでしょう。
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