梁榮忠(JOEY LEUNG/ジョーイ・リョーン)
『香港のシャア・アズナブル』梁榮忠、全ガンダム映像作品レビュー ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.079 ☆
香港で俳優として活躍するかたわら、「電撃ガンプラ王・香港大会」で長く審査員を務める、ガンダムファンの香港人、ジョーイ・リョーン氏が全ガンダム映像作品を辛めに全作レビュー!ホンコン・シティに現れたサイコガンダム級の火力で、全てをなぎ倒します。
▼プロフィール】
梁榮忠(JOEY LEUNG/ジョーイ・リョーン)
梁榮忠(JOEY LEUNG/ジョーイ・リョーン)
香港出身の俳優。香港演芸学院戯劇学院芸術修士(俳優専攻)、香港中文大学芸術管理修士。テレビドラマ、ラジオ、舞台、映画、文字、ネットなど幅広いメディアに出演し、20年以上の経験を持つ。香港VTB、ATV、Cable-TVに出演し、中国大陸劇やアメリカ劇の制作にも関わっている。香港では日本特撮とガンダムの忠実なるファンと自称し、「電撃ガンプラ王・香港大会」の審査員を長年にわたって務めていて、「香港のシャア・アズナブル」として有名である。
◎翻訳・構成:張彧暋(チョー・イクマン)
1977年香港生まれ。香港中文大学社会学研究科卒、博士(社会学)。同大学社会学科講師。「日本・社会・想像」「日本社会とアニメ・漫画」などを担当。専門は歴史社会学と文化社会学。鉄道史・鉄道オタクを研究し、最近は日本サブカル産業と流通、二次創作と著作権問題を研究。香港最初の日本サブカル同人評論誌『Platform』の編集長を務める。
※本記事の取材はどうやら張さん主宰の批評誌『Platform』のイベントとして行われたようです。
■1979年「機動戦士ガンダム」
10点(10点満点)
カノン(聖典)化された本作は、勝手にコメントをすれば叩かれるのではないかと思ってしまう。恐ろしいほど神聖化された作品。「マクロス」と違って、人気が出るまでタイムラグがあることに注目すべき。放送当時、若い人にとって従来の巨大ロボットというジャンルはまだ王道であり、ガンダムは時代を先取りしすぎていた。自己拡張感が欲しい観衆にとって、微塵の英雄感もなく、「親父にもぶたれたことないのに…」と言うほど気の小さい男である主人公は、理解されづらかった。新しい英雄の誕生は、皮肉にも「英雄の喪失」という展開を受け入れる「ニュータイプ観衆」の誕生を待たねばならない。
■1980年「劇場版 機動戦士ガンダム」三部作
7点
劇場版三部作は、映画化を通じた「ガンダムジャンル」のカノン化の過程として捉えられる。同時にガンダムブランドという新型の文化産業の誕生過程でもある。新しいビジネスモデルを模索しながら、様々な可能性を検証していく過程の一環としての映画化でもある。ただ、市場という「引力」が、ニュータイプになりつつあった作家にとって、負担になったか創意の助けになったかは微妙だが……。
■1985年「機動戦士Zガンダム」
8点
「市場という引力」(バンダイのプラモデル事業)と「ガンダムという同人世界」(「ガンダムセンチュリー」のような考察文化)の両勢力によって作られた作品。「英雄の喪失」を受け入れることができるようになった観衆は、(初代)ガンダムを同時代に体験できなかった悔しさを回避するため、新たに聖典となる「ガンダム」を自ら作り出したのだ。「Z」はそんな期待に答えるべく現れて、そして迎えられた。こうした期待を受けて実体化された本作は、ビジネスブランドを制度化していく過程としても位置づけられる。自らの作品を「スター・ウォーズ」シリーズと比喩する富野は、失敗の可能性を抱きながら、なんと前作のヒット要素を排除し、アムロという主人公を捨てた。そういう暴挙と大胆さは、実に格好よすぎる。自分の成功したものを斬り捨て新しいものを作る勇気を持つ流行作家は、中日西洋文芸史上では、たぶん金庸の武侠小説と富野のガンダムしかないかと思う。
ストーリーとしては旧作の「まだ希望がある」という世界観から、灰色と絶望の世界観に変化した。そして登場人物は誰もいい結末を迎えない(死ななくてもボケる)。そんな「Z」は、初見では無印象だったが、いま見直すと号泣してしまう。筆者にとっては、なぜ何も悪いことが起こらなかった1986年の日本でこのような救いのない物語が作られたのか、長年の謎だ。俳優業を長年勤める筆者は、呆けた主人公が登場するラストシーンは本当にショックを受けた。このラストシーンを見たときの涙を筆者は永遠に拭かないだろう。これは多分見てきた作品の中で一番印象に残る「結末の涙」だ。
■1986年「機動戦士ガンダムZZ」
6点
初見で「ドラえもん」と勘違いして、絶句。だが、富野の勇気が垣間見える。たぶん彼は様々な市場からの要求と、それに応じて強くなってきた制作圧力に耐えながら、よくもガンダムをドラえもん化したと言える。もちろん中盤からの従来のトーンへの逆戻りは仕方がないだろう。今どきの、たとえば虚淵玄の「計算通り」に作られたシナリオと比べるともちろん不満はあるが、市場の引力と外圧に耐えながらの、富野の創意工夫に溢れたシナリオづくりにも注目。そして、ビルドファイターズは「ZZ」の正統なる後継者でもあることに注意を払う必要がある。
■1988年「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」
8点
カノン=聖典と言える作品のひとつ。だから評価も両極端になるだろう。歌から画面の隅々まで、非常に真面目に賢く作られている。批判するとすればそれはおそらく本作の言語の過剰さではないか。どうも説教くさい。これは「ガンダムUC」にも見られる問題だ。「逆襲のシャア」は神聖化された人物の終末を描くべき作品だったが、この聖典ではなんとその結末をはっきりとは描かなかった。これも富野監督の作家としてのガッツだと言える。後から見ると、ここで富野の得意技をバーゲンセールしてしまい、あとには何も残らなかったように思える。彼は本作でガンダムという作品を葬ろうとした。だから本作はいわゆる葬式みたいなもので、そして、本作をもって「ガンダム」は実際葬られ、歴史化されたのだ。
■1989年「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」
7点
子供の目を通じて戦争とは何かという視点を提供してくれて、非常に楽しく見られる。物語を描く視点がはっきりと固定されていて、細部の描写はもちろん、主題歌の歌詞まで徹底している。ただ、ロミオとジュリエットというテーゼの他に、あまり後世に残すものはないかもしれない。特に機体設計(モビルスーツデザイン)の凡庸さにこの問題は顕著に現れている。
■1991年「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」
8点
市場万歳、という原理で本作を概括できる。制作原因は金・金・金。ガンダムプラモデルファンでもある筆者にとっては、これは一番お金のかかった作品でもある。機体設計は神すぎて、筆者は呪われたほど買い続け、本作のガンプラを神像として長年供養し続けた。テレビはもうだめな時代になって、その発表の場をOVAに変更した本作は、臨機応変な展開を見せ、非常にクレバーな作品に仕上がっている。一年戦争の世界観から一生懸命に逃がれたいであろう製作陣にとって、ガンダムという創作空間は非常に狭く、息苦しいものになっていたはず。そしてその対応として、「機体(ガンダム試作機)の資料は全部消した」という面白い設定を創り出す(Z・ZZにも繋げられたネタ)ことに好感が持てる。ガンプラでの根強いその人気から見ても、本作は後世にも大変影響を与え、「ガンダム」というジャンルを文芸史に根付かせる重要な役割を果たした。
■1991年「機動戦士ガンダムF91」
6点
ガンプラの新設計に合わせるため作られたのだろうが、モビルスーツのサイズの設定やデザインのリニューアルは富野が元々意図していたものでもあったようだ。ただ、なぜファンの中でこの物語はなかなか受け入れられないかという問題を理解するためには別のポイントがあるはず。「1年戦争」の世界観を引きずっていなければ、ガンダムファンは絶対に物語を受け入れないのではという疑念が浮かんでくる。関連する問題として、富野を評価する際に、彼の影響力は絶大だが、ファンの頭が異常に固く作家の試みをなかなか受け入れない、という矛盾がある。そしてこの矛盾はこれからも繰り返されていく。
■1993年「機動戦士Vガンダム」
6点
まず、この作品を全話見られる人はどれぐらいいるのだろう。なぜか戦闘場面はやや雑だし、もともとガンダムジャンルに欠かせない物語の複雑さも簡略されすぎているかと思う。原因として、対象視聴者を児童向けに転向したかったのがあるのだろうが、その転向はやや不完全で中途半端であり、物語や表現の複雑さの生む豊かさが犠牲になっている。ハードコアファンに傾けるか新しい年齢層を取り入れるか、どっちつかずでバランスが悪い。たぶん新しいものを作りたかったのだろうが、その方向性がまだ決められていなかったせいだろう。
■1994年「機動武闘伝Gガンダム」
8点
「ガンダム」として捉えなければどう解釈してもOK。どうコメントしても面白い(ガンダムというフレームでなければね)。香港人からみると、これはもちろん正統なる「香港映画=港産片」で、香港映画史の教科書に入れてもいい。イデオロギー分析なら日本の常任理事国入りの問題にも絡めることができるし、「香港で決闘するとはどういう意味か」あるいは「東方不敗老師=中国化なのか」の解釈だけでも学術論文数本ぐらい書けるレベル。要は「ガンダムでもなければ=流行であれば」、何でもかんでもガンダムワールドに投射させ、二次創作を取り入れ、様々なイメージを乱反射させられる作品。セーラームーンガンダム(ノーベルガンダム)がハードコアガンダムファンを生殺しにする理由は、ファンが欲しいものだけを与えていないからだ。その他にも、何でもやる本作のサービス精神満載の姿勢は、仮面ライダーなら「響鬼」を連想する。ガンダムという信仰を捨てたらすごく楽しめる作品のはず。
■1995年「新機動戦記ガンダムW」
6点
ガンダムが国際化し得るのかをはじめて試された本作は、ビジネス的な判断によって作られたに違いない。格好いい五人の美少年、美少女、そして機体=ガンプラ。ただ、全部が商業的計算の下でつくられた作品に、まだ創作の余地は残っているのだろうか。この問いはこれからの作品の分析の肝でもある。
■1996年「機動戦士ガンダム 第08MS小隊」
8点
一番好き。地球の引力が云々、という偉そうな議論ではなく、完全に普通の人間の視点で作られた秀作。機体の修理をして歩く主人公たち、彼らの体験する戦争の現場の雰囲気、官僚の無責任など、リアリティを作り出せているのは、はじめて「歴史」という要素を本格的にガンダムに取り入れたからだ。「Down-to-earth」(地面に這い付く)スタンスで物語・設定・人間関係をリアル志向で作り、これまでにないリアルさをはじめてガンダム世界に取り込んだ本作は、破格。初心に戻れる感じもする。初期の「How to build Gundam」の別冊2号のカバー図面が、本当にアニメになったことに驚いた。コアファンにも文句が言われない真面目な製作。ラブストーリーの最初の導入も好感。正確な計算で作られた傑作。
■1996年「機動新世紀ガンダムX」
6点
本作を面白く見られる人が本当にいるのか。おもちゃ宣伝CMといえるガンダムジャンルだが、強くなってきた商業的圧力を観衆でも身近に感じるほどの窒息感。
筆者は俳優として、台本を書いた作者の人生や過去を考える習慣があるが、こうした制作者の思いは大体男性の成長過程の反映でもある。よく物事を否定していると、捏ねる習慣にもなる。古いものを打倒しようとするのはいいとして、本当に何か新しいものを作り出せるのか。そうでないと、ただのわがままではないか。
■1999年「∀ガンダム」
8点
物語と世界観だけでなく、ガンプラファンでもある筆者は、最近になってようやく∀の機体設計(モビルスーツデザイン)を好きになった(!)。いまさらになって気づいたことだが、ガンダムの顔面・顔色・アンテナのなさまでも含めて、一番印象に残るし歴史にも残る設計だと思う。作品面でも、富野ガッツ全開。最初に見たときは、「世界名作劇場」か時代劇かと混乱したが、一話の最終シーンで、主人公が月に吠えるのを見て心が震えた。ファンが欲しいものを全部捨てたが、非常によくできた推理物語でもあると思う。メッセージもはっきりしていて、決して戦争は終わらないし、人類の間違いは繰り返す、というもの。物語として刺激的だし、自分の作品を黒歴史と名乗る作者の勇気に感服させられる(本作では「ガンダム」と名乗る機体も一体だけに戻るし)。
ここからガンダムには富野と無関係な作品が増えることになるのだが、そのことを踏まえても本作には並々ならぬ富野ガッツを覗ける。筆者は富野本人に何度も会って、チャンスがあったのだが、「もうガンダムを作れない理由はやはり∀のせいなのか」ということを、結局問う勇気はなかった。
■ 2002年「機動戦士ガンダムSEED」
7点
とても嫌い。理由は、新しいものは一つもないから(BLを除く?)。よくも悪くも非常に良くできた複製品。ただ、ゼロ年代以来、新しいガンダムシリーズを作れるのはやはり「SEED」のおかげだ。歴代ガンダムジャンルの成功要因を選択し全部うまく取り入れ(一年戦争+両陣営+三角恋愛+新しいBL?)、制作は非常に真面目。
■2004年「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」
5点
SEEDに続編があること自体が問題。富野は新しいものを作れるが、「DESTINY」のスタッフはできなかった。しかも、商業的な圧力もない自由創作空間も十分与えられたはずなのにこの有様。制作者の能力不足を感じる。しかも、一年間の番組なので、途中からその有様を生で目撃することになった。この作品が「00(ダブルオー)」をはじめ、ロボットジャンルの二部作システム(分割2クール放送)への流れに影響したのではないか。
■2005年「劇場版 機動戦士Zガンダム」三部作
6点
もともと「Z」は非常に複雑な物語なので、映画化するとストーリーは一気に砕けてしまい、わかりづらくなる。よって、これを見るためにテレビ版が必要になる。「Z」を黒歴史に送りたかったのだろうが、結末の修正の意味はやや不明(「ZZ」をもう一度描きたいという説の原因にもなる)。制作費の高さを見るに、本当に必要があったのかどうかさえ疑問。
■2007年「機動戦士ガンダム00」
9点
「Gガンダム」と同じく、「ガンダム」と見なさない限り傑作。水島(水島精二監督)は「鋼の錬金術師」以来、有名ブランドを借りてきて自分が描きたいものを作るのが得意。「00」を見た途端に、「これはガンダムではない!?」と気づいたが、実際にまったく別のものだった。シナリオはよくできていて、エネルギー戦争という実際の政治世界のテーマをガンダム世界に放り込んで、はじめてイデオロギー的な批判が有効な作品を成立させた。本作のテーマは「戦争」ではなく「コミュニケーション」。人間同士はしょせん死ぬか、「裸のチャットルーム」状態からしかコミュニケーションができない。結局人間は第三勢力によってしか団結できないというメッセージは凄い。偉い世界観のおかげで、我等をガンダム世界から離脱させる力を持つ傑作。
■2010年「機動戦士ガンダムUC」
8点
原稿を書く際にまだ全部見てないのでコメントを控えるが、ハードコアファンを満足させる市場的な計算もあり、新しい客寄せも積極的にやっている。結局、ガンダムを評論する際には、その「市場優先主義」に最大限の注意を払わなければならない。
■2011年「機動戦士ガンダムAGE」
5点
流石に筆者でも4話ぐらい(子供時代)を見逃した(後で見直したが)。制作目的をはっきりさせて、子供層を取り込むために日野を起用したのだろうが、結局子供向けかファン向けか、バランスが取れなくなり、技術と理想がミスマッチした。「AGE」の世界感は実によく完成されていたが、人物設計から女主人公の謎の死まで不可解なものが多い。比較してみると、子供向けの目的なら、虚淵玄の「仮面ライダー鎧武」のほうがずっと成功したし、作者の意地を通すなら「∀」のほうがずっと格好いい(どうせなら子供編はカットしないでそのまま続けていれば、急に意味不明なボス戦になったりはしなかったはず)。ガンプラ面では、実によく考えられている展開で、製品コンセプトの作り直しもよいが、ワゴン行きなのは不幸(「SDガンダム三国伝」のようにおもちゃだけならまだいけるが)。結局証明されたのは、ガンダムジャンルの限界。ガンダムという物語は子供向けではないこと。
■2013年「ガンダムビルドファイターズ」
6点
子供を取り込むなら、物語ではなくガンプラだと証明した本作は、もちろんコアファンも安心して見ることができる。「AGE」の失敗から、投資面のお金を取り戻す作戦の一還として、名場面へのオマージュからから機体設計のおまけ追加まで、本作は実によくできている(「SEED」10周年のガンプラ販促連動なども配慮したし)。考えてみれば、二次創作という原理で働く本作では、ファンが必ず一度夢を見る、実際に動くガンプラ大戦を見られることを激賞したい。制作のアイデアは賢い。
(了)
■【おまけ/宇野常寛 in 香港】
2012年の香港遠征で放送した、ニコ生の様子をご覧いただけます。(※映像に一部乱れがございます。予めご了承ください。)
▼宇野常寛が香港の学生さんの質問にひたすら答えてみた
▼宇野常寛が香港同人業界の凄い人たちと世界の真実について語ってみた
2014/05/26(月) 07:00 週刊宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~5月19日放送Podcast&ダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.078 ☆
2014/05/28(水) 07:00 起業家・家入一真インタビュー 「何者でもない、みんなが『バカ』になれるオリンピックを実現したい」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.080 ☆
コメント
コメントを書く(ID:650038)
ガンダムでもっとも視聴率が高かったSDガンダム大行進は無視ですか、そうですか…
(ID:32749700)
OOが1stに次いで高得点なところを見ると金を貰っているのは確定か
(ID:679674)
引っかかるものもあるものの、割とストンと落ちるものだった。
たぶん軸があってそれを基にまとまってるからなのかな。