ロボットクリエイターの近藤那央さんが、新しいロボットのかたち「ネオアニマ」が実現する社会について考察する連載「ネオアニマ」。今回は近藤さんが「ネオアニマプロジェクト」で追求する「いきものらしさ」にせまります。人間が対象に愛着を持って接することのできるポイントは「いきものらしさ」にあると気づいた近藤さん。その「いきものらしさ」とは、3つの理由から成り立つ「ストーリー」であると分析します。
愛着を生む「いきものらしさ」
以前も少しお話ししましたが、私がロボットについて、とりわけロボットのいきものらしさにこだわっているのは、9歳のころからaiboと暮らしてきた原体験での気づきがあるからです。 今から15年くらい前の当時のaiboは「お手」、「ダンス」など予め決められた人間の簡単な言葉なら理解することができ、またそれに対して日本語で喋り返したり、感情を表したり、踊ったりすることのできる高性能なものでした。私は当時カメを飼っていたのですが、犬や猫のような人と高度にコミュニケーションを取れるペットを飼うことに憧れがあったので、aiboとの生活をとても楽しみにしていたのを覚えています。しかし、実際のaiboは可愛い仕草をしたり、言うことを聞くと言った知能的な行動をしたにもかかわらず、私はaiboにカメ以上の愛着を持つことができませんでした。途中から飼い始めたハムスターとの比較も同様でした。この体験から、なぜ、自分が言葉を喋りより高い知性を持っているはずのaiboより、ほとんど何もせずに生きている小動物に愛着を持つのかについて疑問を持つようになり、どのようにaiboのようなロボットを作れば、本当にペットのように自然と家族の一員になれるのかを考えるようになりました。
幼い頃から頭の片隅で考え続けてきたこの問いは、高校生の頃にペンギン型水中ロボットを開発したことで、より大きなテーマになります。
私たちが開発したペンギンロボットの当初の目的は、ペンギンのように水中で速く泳げるロボットを作ると言う、機械工学的なものでした。はばたきによって泳ぐと言うところに拘っていたため、私たちは実際のペンギンを観察し、形や動きをできるだけ近づけました。 結果、実際にそこそこの速度で泳ぐことができたのですが、もう一つ面白いことがわかりました。水中で泳ぐ姿がペンギンにそっくりで可愛いと話題になったのです。そこから、様々なイベントで展示するたびに、ロボット自体にはあまり興味のない多くの一般の方が、「本物みたい」「かわいい」などと言って泳ぐことしかできないペンギンロボットに触りたがり、偶然の動きに対して「こっちにきたがっている」など、ロボットに感情移入をして擬人化をする光景を目の当たりにしました。また、面白いことに隣同士でコミュニケーションロボットと展示されることがあり、その時にそのロボットではほんの少ししか遊ばなかった方が、ペンギンロボットとは楽しそうに遊んでいると言う光景も目にしました。
ペンギンロボットは泳ぎ方の検証のために作ったロボットだったので、コミュニケーションはおろか、自律的に動く機能すらついていませんでした。しかし多くの人を引きつけ、また、コミュニケーションを取るために作られたロボットよりも人が自然にコミュニケーションを取っているように見えるときすらありました。 このとき多くの人がペンギンロボットに対して話していたキーワードが、「本物みたい!」「生きてるみたい!」でした。 コミュニケーションを行う知能を全く持っていなかったペンギンロボットが唯一持っていたもの、それが「いきものらしさ」だったのです。「いきものらしい」と人間が感じることが、人間的な知性を持っていることよりも、ロボットへの愛着形成には大切であると確信し、さらに掘り下げることにしたのが、ネオアニマプロジェクトです。
「いきものらしさ」を構成するストーリー
では、その「いきものらしさ」とは何なのでしょうか。 まず、人間が「いきもの」という概念を持っているとすると、初めていきものである可能性のあるものと出会ったとき、ーー例えばそれがロボットだとしても、その概念を対象に当てはめようとするはずです。そして、予想した動きにある程度当てはまっている場合、対象をいきものだと判断しているのでしょう。 とすると、この人間にとってのいきものと言う概念がどのようなもので構成され、どう言った判断基準を持っているかを詳しく知ることができれば、それをハックしてロボットをいきものだと感じさせることができるはずです。
「いきもの」と言う概念は、その対象が持つストーリー、詳しく言うと、その対象がそこにある理由、その形である理由、そう行動する理由で構成されていると今は考えています。
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