工芸品や茶のプロデュースを通して、日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしている丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』。今回のテーマは時間性です。西洋の定量的な〈時間〉の概念を、伸縮可能な〈間〉として解釈する茶の思想をもとに、喫茶の文化において来るべき第四の波、フォースウェーブのあり方について考えます。(構成:大内孝子)
【お詫び】本記事について、一部内容に間違いがございました。読者の皆様には、謹んでお詫び申し上げるとともに、今後再発のないよう、編集部一同、重々注意して参ります。(2019年1月17日16時25分追記)
漏れる月明かりを〈間〉とする東洋
丸若 昨年はポートランドとコペンハーゲンで企画展示をしましたが、今年は2月にアムステルダムでやります。こちらからアプローチして、というより"縁"です。コペンハーゲンにはヒッピータウン「クリスチャニア」があり、ポートランドもナイキやサードウェーブを擁する先進的な街だし、アムステルダムも自由な国です。茶というと、イギリスとかカチッとしているところから話が来そうなのに、カウンターカルチャーを牽引しているようなところから企画が来る。これは、必然なんだろうなと思います。
宇野 20世紀の、特に前半の文化はロンドンとニューヨーク、あるいはパリとニューヨークの間のパワーバランスで動いていたのだけど、それが20世紀の末からグローバル化に従って多極化していったと言えると思うんですよね。その代表がたとえば、西海岸のコンピューターカルチャーだった。ただ彼らはたしかに新しいものを作っているけど、歴史的な蓄積がない。だから、自分たちのアイデンティティを記述できるような文化を外に求めていっているのだと思います。チームラボの最初の大型単独展がシリコンバレーで行われたのはそれを象徴するような出来事だと思っていて、丸若さんにそういった都市から声がかかるのもそれと同じ話だと思います。
丸若 今回、宇野さんとお話をさせてもらいたいのが、時間というか〈間〉についてです。今、僕たちはこの時代のティータイムを楽しもうとやっていますが、ティータイムは直訳すると「茶の時間」です。でも「茶の時間」だと何か違うな、と。僕はティータイムは「茶の時間」ではなく「茶の間」だと思っているんです。この〈時間〉と〈間〉の違い。時間はみんなが効率よく動くためのルール。だからこそ国によって時差があったり、技術の進歩で移動時間が短縮されたりします。インターネットによって、100年前の時間と今の時間は違うものになっていますし。時間というのは、人間が都合よく刻んだものに過ぎないわけです。
宇野 時間は「時」の「間」と書きますからね。
丸若 おもしろいのは、この「門」に「日」と書く、今の「間」という漢字が使われるようになったのは、実は昭和になってかららしいんですね。それまではどうやら「日」も使う場面もあったようなのですが、そもそもは、「門」に「月」だったという。語源は中国で、城壁などを門で閉ざして自分たちの世界と外の世界を区切る。そのとき、木の門だからどうしても隙間が空く。そこから漏れる月明かりを「間」として考えていたと。月という点では、茶で使われているのも月の暦ですし。
宇野 そうですね。太陰暦でしたから。
丸若 月は満ち欠けもするし、伸び縮みする。つまり、〈間〉は伸び縮みすることを前提に考えられている。僕は江戸時代ぐらいに変わったのかなと思っていたんですが、調べてみたらそうではなかった。因果関係があるのかどうかはわかりませんが、昭和に入って戦争に負けてから、「月」から「日」という字に変わったらしいんです。
宇野 象徴的なエピソードですね。
丸若 1分を1時間にできるのが茶の時間。この考えを海外の人に説明すると食いついてくるんですよ。「間」という字自体がおもしろいし、東洋思想的ですからね。彼らは現代物理学によって時間が伸縮する領域にたどり着いているけれど、日本人とか東洋の人たちは感覚知で時間をすごく曖昧な概念として理解してきたというのがある。
こうして今、僕と宇野さんの会話の中で時を刻んでいます。そこに、ちょっと句読点が入る。それは、「〈間〉を生むこと」なのではないかと思うんです。すごく忙しい人、たとえば、猪子さんとかは、日常の中で〈間〉がないわけですよ。でも、茶を飲む瞬間に止まったりする。これはすごくおもしろいなと思って。海外の人たちも関係なく感じることなんじゃないかなと。
宇野 すごく、おもしろいですね。たとえばGoogleとかFacebookがやろうとしているのはそれこそ「間を奪う」ことなんですよね。通勤時間だったり、誰かを待っている時間、仕事中に集中力が切れた瞬間はもちろん、日常生活の中のちょっとした「間」をもスマホで奪おうとしている。結局、西洋近代のロジックに慣れた人間というのは間ができたら、それを埋めたくなってしまう。そこに目をつけたのがGoogleであり、Facebookであり、というところ。
つまり20世紀の工業社会に飼いならされた人間はちょっとでも間ができるとイラっとしてしまう。間を楽しめなくなってしまっている。ディズニーランドのアトラクションで並んでいる間に『ポケモンGO』をやろうぜ、みたいな感じで、間を埋めるものとしてスマートフォン的なもの、シリコンバレーのインターネットプラットフォームのサービスというものが侵入してきている。20世紀の工業の力では、時間を区切ることはできでも、そこで発生してしまう間というものに関してはアプローチできなかった。彼らはコンピューターの力で、その〈間〉を埋めようとしているんですよね。
今の丸若さんの話を僕なりに解釈すると、Google、Facebookといったシリコンバレーのやり方とは違う方法で、もっと間というものを大事にしていきたいと考えたときに、僕らが戦えるとしたらその武器が茶だったのではないかということになるのだと思います。
言い換えると20世紀は〈時間〉で、21世紀は〈間〉がポイントになってくる。それはグローバルなビジネスの流れを見ても明らかです。実際、産業の流れを見ると、やはりGoogleやFacebookというシリコンバレーの企業というのは、その〈間〉を埋める方向にいきますよね。〈間〉を細切れの時間として"使う"方向にいってしまう。〈間〉を〈間〉のままにしておくという方向は、今のところいっていないと思います。だから〈間〉を〈間〉のまま味わうためにはそこにもうちょっと違う方向のことを考えないといけない。それを、茶のようなものを通じてやっていくことにおもしろさがあると思います。
コメント
コメントを書く(ID:46184560)
『字統』などによれば、「間」の旧字の「月」は天体の月ではなく「肉」に由来する(「臓器」と書くときの「にくづき」がこれですね)もので、門中に肉をおいて祀り安静を祈願する意とのこと。
つまり東洋的な文脈で、「間」とは単に空間的な距離や深度を表すだけではなく、そこに在るものやこと(観察対象)と観察者の動静を丸ごと含んだ一部始終を表す概念なのだということなのでしょう。やや呪術的なニュアンスもあって、なかなかに意味深なワードだと思います。