ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームとは切り離すことのできない問題として語られることの多い「依存」。今回は精神医学的な観点からだけではなく、学習プロセスとの関係性から依存メカニズムの検討を行います。
3.7 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)
3.7.1 同一のものの反復
我々は、好きなときにゲームをやめることができる。好きなときにはじめられるように。
それは、ゲームを遊ぶ我々が手にしている、基本的な自由だ。それは、とても重要な自由だ。
やめることが自由にならないゲーム的な経験もある。たとえば、ブラック企業で課せられる成果主義のレース。学校の体育祭。人間関係や、社会的制度が絡み合ったものは気楽にやめることはできない。やめるという自由を失ったこうした経験は、負のストレスがかかりすぎたときにその調整ができなくなる。これは不幸なことだ。
やめられないゲームの経験にはもう一つの形態がある。
それは「依存」とか「障害」と呼ばれるものだ。
ゲームに関わる依存では、ギャンブル依存、オンラインゲーム依存など、いくつかの深刻な依存が知られている。ゲームの「依存」が存在するという見方については、様々な批判があるが、ゲームの「依存」として操作的に定義された症例が一定数存在することは、否定しがたい【1】。
これらの依存症患者は、必ずしも社会制度的にゲームをやめられないわけではない。重度の依存症患者は、自らの理性の力でゲームをやめるという自由を失っている。
実録漫画『ど根性ガエルの娘』【2】の冒頭では、ギャンブル依存と思しき漫画家(『ど根性ガエル』の作者である吉沢やすみ)の父親が登場する。娘がパチンコ屋の中から父親を探しだし、どうにかしてパチンコを打っている父親をパチンコ台から引き剥がし、漫画の〆切を守るように言う。しかし、父親はパチンコを無理やり止めさせられたことに激怒し、ゴミ箱を投げつけて罵倒する。父親はそうして、娘の必死の説得にも関わらず、原稿を落とす。
この父がギャンブルをする理由は、社会的に強制されたものではない。こうした形で、強制されているわけでもなく、ゲームをやめるとことから自由ではなくなっている人がいる。
今回扱うのは、学習と「依存」【3】の関係だ。
なお、本稿執筆時点(二〇一八年五月)で、国内でもゲームへの依存についての議論がなされている。ただし、本稿の主眼は、精神医学的な「依存」基準の妥当性を問うものではない。精神医学的な「依存」概念についても論じているが、本稿で扱おうとしている「依存」概念に関わる論点とは少し異なる。
依存というものは、ゲームそのものではないが、物語や、均衡概念と比べても、強化学習のあり方自体にかなり近いものだといえる。本稿が問題にするのは、学習プロセスと依存メカニズムの関係性だ。
物語との関係性では「反復」を扱い、駆け引きとの関係性では「安定」を扱ったが、依存概念はその双方にまたがっている。
すなわち、「反復」して、「安定的に同一の報酬を求める」プロセスが依存である。
この定義だけを用いるのならば、社会的に問題になりにくい依存的なケースもある。たとえば、同じ掃除を毎日のようにしているのが嬉しいという、掃除マニアのような人は、多少ゆきすぎた掃除好きでも「潔癖症」として片付けられる程度のことも多い。アルコールや薬物の依存と比べれば、問題になりにくいと言える【4】。
学習プロセスと依存の関係の問題は根深い。
神経生理学的な説明としては、そもそも「依存」とは任意の刺激に対する強化学習の結果として考えられている【5】。つまり、学習プロセスの行き着く先に「依存」がある。
一方で、精神医学的な「依存」の判断基準では依存は強化学習の問題だけではなく、もっと社会的な側面を含んでいる。それは、社会との間に問題を抱えなければ、病気として処理される必要はないからでもある。
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