サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家としても活動している、大見崇晴さんの「
イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」。今回は特別編として、2017年2月24日に発売された『騎士団長殺し』の書評を寄せていただきました。村上春樹は何故「白々しい語り 」を必要としているのか。春樹への批評や、春樹自身の他作品からの引用を踏まえながら、話題の最新刊に鋭く切り込みます。
2017年2月17日に、村上春樹の新刊タイトルが『騎士団長殺し』と知ったとき、旧来からの読者はため息をついた。そのタイトルからモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』であることが察せられたからだ。
『ドン・ジョヴァンニ』では主役ドン・ジョヴァンニが女たらしで様々な女性と関係を持ち、剣捌きにも優れ、騎士団長を殺したほどでもある。そして彼は、石像となった騎士団長に地獄に引きずり込まれる。
こういった筋立ては、しばしば揶揄される村上春樹作品の特徴そのものである。幾人かの女性と関係を持ち、地獄を巡り、眠りにつくことで小説が閉じられる。だから、『騎士団長殺し』というタイトルから、自己の作品に対して作者自身が言及している、いかにも村上春樹らしい、白々しい小説だと予想されたのだ。
実際に、『騎士団長殺し』という小説は白々しい小説なのだ。屋根裏に隠された「騎士団長殺し」と名付けられた日本画を眺め、「それから私ははっと思い出した。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』だ」と語り手が呟いている小説なのだ。
この白々しい語りを村上春樹は何故必要としているのか。その解答は簡単なものだ。連載では以前説明したが、村上春樹の小説とは、「自己療養」のために「心理学」を土台にした比喩が用いられ、それらのみでは単調で短編小説にしかならない作品を引き伸ばすために「商品カタログを盛り込んで水増しさせた小説」なのである。その手口を自ら「騎士団長殺し」というタイトルで以って明かしたのである。
では何故、村上春樹は手品師が廃業手前でするように、手口を明かしてしまったのだろうか。この理由は「自己療養」のために「心理学」で小説を執筆してきたため、既存の作品についての記憶も振り返る必要が出てきたためだ。本作では明らかに過去の作品を意識させる表現が多く盛り込まれている。
作品冒頭で主人公夫婦が離婚危機にあるのは『ねじまき鳥クロニクル』を模したものだ。作中のキーパーソンとなる免色渉(メンシキ・ワタル)は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のことを意味している。「あれではとてもイルカにはなれない」という章タイトルは『羊をめぐる冒険』(いるかホテルが登場する)を意識したものだろう。主人公の年齢が36歳に設定されているのは、作中で地下を潜るという表現を最初に活用した長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を発表した年齢であり、この小説でも地下めぐりは行われる。ジョージ・オーウェルの『1984』についても言及がある。それどころか「風の音に耳を澄ませて」というデビュー作『風の歌を聴け』を想像させるフレーズが会話に散りばめられる。『ねじまき鳥クロニクル』で取り扱われたノモンハン事件は、南京虐殺に置き換えられ、以前は「井戸」(=イド、無意識といった個人的なもの)として語られていたものが、「(忘却の)穴」(集団による暴力的なもの)といった思想家ハンナ・アーレントを想起させるように改善がなされている。
そのような常連さん向けの接待にしか思えない部分が多いとはいえ、『騎士団長殺し』は、村上春樹にとっては久々のヒットといえる小説だ。この小説は過去のテーマを総ざらいしたところがある。また、いままで深掘りしてこなかったテーマをようやく取り扱ったという新味がある。死と老いである。
「死と老い」というテーマについては、のちほど語ることとして、ひとまず従来から幾つかある村上春樹のテーマにおいて、本作に重く取り扱われるているものを取り扱うこととしよう。
第一部「顯れるイデア編」、第二部「遷ろうメタファー編」といった部のタイトルにもなっているように、創作について問題意識がある。画家という作者とクリエーターという共通点を持っている主人公が、クリエイトすることについての問題意識とテクニックが比喩を用いて物語として紡がれる。
小説中登場する「騎士団長」なるキャラクターは、自分のことを「イデア」と名乗る。騎士団長は作中の登場人物・雨田具彦の日本画「騎士団長殺し」に描かれた飛び出したキャラクターである。このキャラクターとの対話で主人公である「私」は次のように語る。
「ぼくが思うに」と私は言った。「イデアは他者の認識そのものをエネルギー源として存在している」
「そのとおり」と騎士団長は言った。そして何度か肯いた。「なかなかわかりがよろしい。イデアは他者の認識なしに存在し得ないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ」
(第二部p.119)
ここから読み取れるのは、村上春樹の芸術観である。イデアとは芸術作品の言い換えであって、作品は他者に認識されることで作品として存在し得るというのが村上春樹の芸術観なのである。
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