メディアアーティストにして研究者の落合陽一さんが、来るべきコンピュータに規定された社会とその思想的課題を描き出す『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』。今回は、コンピュータによる全体最適化で多様性を失った人間は、いかにして強度を確保するのか。人間性を超越した機械による新しい統治の原理について考えます。(構成:長谷川リョー)
人間の寿命を超えた知性が出現する
第5回の前編では、AlphaGoを引き合いに出しながら、コンピュータ・サイエンスの専門家が他分野に侵食しつつある現状、そして、二つの思考法のパラダイムが生まれていることに触れました。
たとえば、現在生まれつつある「◯◯の専門家」vs「コンピュータの専門家かつ◯◯の素人」という対立構図においては、後者が前者を駆逐していくのは明白でしょう。しかし、この変化はあくまで人間の生物時間を単位とした場合のものです。これが、「インターネットの意思ないし集合知」vs「ある世代の人類」だった場合、その変化は、前者よりもはるかにゆるやかなペースで進むことになります。
個人の人生の中で、目的の実現を目指すのであれば、ラディカルな変化が求められます。そこでは資本主義的なテコの原理によって、問題を短時間で効率良く解決するフレームワークが有効です。それに対して、個人の人生を超越した全体を想定する場合、変化はより長いタイムスパンに及び、ゆるやかな速度で進んでいくでしょう。この時間尺度で捉えたインターネットは、人類の集合知であると同時に、人類の生物学的限界を超えた「寿命から切り離された知識」と言えるかもしれません。
こういった個人の寿命をはるかに超えた全体が想定された事業の例は、人類史上においてほとんど見当たりません。約300年の建造期間が想定されたアントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアや、1000年以上もの間、増築され続けた万里の長城、1500年続くと言われる伊勢神宮のライフサイクルなどはその数少ない例外です。このような数百年単位で完遂される知的活動の事例が少ないのは、人間の生活実感をはるかに超えた時間単位における知性の働き方は、我々の知るそれとは全く異なっているからです。
もっとも、状況に応じて生み出された巨大な仕組みが、結果的に人々の思惑を超えたところで全体として機能し始めることは、往々にしてあります。たとえば、津波を避けるための防波堤がそうです。最初に防波堤が建てられたのは、震災時の被害を食い止めようとする人々の意志によるものでしょう。しかし、一度システムに組み込まれた防波堤は、あたかもそれ自体が意思を持っているかのように存在し続けるようになります。防波堤が壊れるたびに「防波堤がないとダメだ」という議論になり、人々は誰に命じられるでもなく、防波堤を修理し続ける。次の大地震が来るまでのタイムスパンが、人間の一生よりも長い場合、その活動は個人を超えた意志のもとに維持され続けます。いずれはインターネットも、そういった巨視的な前提に立った構造物を数多く産み出すようになるでしょう。
このコンピュータによる全体最適化は、「死の概念」や「個人の幸福」といった人間の倫理観を超越しています。しかし、だからといってそれが、人間の尊厳や基本的人権を直接的に脅かすことはないはずです。なぜなら、人間が判断や意思決定しうるスパンは、せいぜい自分の一生、80年程度が関の山だからです。それ以上の時間的スケールを要する問題は、周波数が遅すぎて考えることができず、おのずと認識の外側に置かれるからです。
全体最適化による問題解決――それはきわめて全体主義的ですが、同時に誰かを不幸にすることもありません。将来的には、この「全体最適化による全体主義によって全人類の幸福を追求する」という思想が、人間社会を覆い尽くすことになっても、不思議ではないと思います。
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