本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、2000年代後半のアニメ市場で起きた「セカイ系から日常系へ」のシフトを、オタクたちのアニメを通じたコミュニケーションの変化を鍵に読み解きます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです)
涼宮ハルヒの本音
2000年代初頭に最盛期となったセカイ系ブームは、やがて終わりを迎えていきます。ターニングポイントとなったのは、この作品です。
(『涼宮ハルヒの憂鬱』映像上映開始)
2006年に放映された京都アニメーション制作の『涼宮ハルヒの憂鬱』です。原作は谷川流のライトノベルで、シリーズの最初の一冊が発表されたのは2003年なので、まさにセカイ系ブーム真っ盛りの時期ですね。実際に、物語の骨子は平凡な男子高校生が、実はこの宇宙の「神」的な存在である(しかし本人はそのことに気づいていない)ヒロイン(涼宮ハルヒ)に愛される、というまさにセカイ系的な構造をもった作品です。
この作品を読み解く上で重要なのは「実のところ、ハルヒは一体何を求めているか」ということです。この作品に登場するヒロインのハルヒは、70年代や80年代にはクラス内に必ず2、3人いたUFOや超能力が大好きな、いわゆるオカルトファンです。物語の舞台が当時だったら、転生戦士に目覚めていたかもしれませんね(笑)。
ハルヒは、当時のオカルトファンと同じようにこの消費社会の「終わりなき日常」のことを退屈だと思っています。この世界にはモノはあっても物語はない。なので、この変わらない世界の外側に連れて行ってくれるUFOや超能力を求める。でも実際はハルヒ本人が神様のような能力を持っていて無意識の欲望を叶えることができるので、本当に宇宙人や超能力者や未来人がやってきて(ハルヒはそうとは知らずに)高校生活の中で仲良くなっていきます。
ところが、ハルヒはそんな宇宙人や超能力者や未来人たちと何をやるのかというと、「SOS団」という部活を作って主人公を巻き込み、学生映画を撮ったりみんなでキャンプしたり、放課後に買い食いしたりと普通の青春をしているだけです。要するにそれがハルヒの欲望なんですね。彼女はふだん「この世界は退屈」なので、「宇宙人や超能力者や未来人に出会いたい」と言っていますが、表面的にそう言っているだけで、本当はリア充な学園生活を送りたいだけなんです。その方便として、日常的なつながりの契機として非日常が必要とされている、ということですね。
宮台真司さんが、80年代のアニメシーンを『宇宙戦艦ヤマト』的なものと『うる星やつら』的なものの対立で捉えた分析を紹介しましたが、ここでは要するに前者が後者に敗北しています。要するに『宇宙戦艦ヤマト』的な非日常への渇望と『うる星やつら』的な日常の祝福は、後者の欲望のほうがこの時代には強く、前者は後者のイイワケとしてしか作用しない、ということです。政治運動に夢中になってしまう人が、本当は単に寂しかっただけ、というケースは、たとえば60年代の学生運動が盛んだった頃からよく指摘されていた問題ですけれど、こうした消費社会への適応としてのコミュニケーションの自己目的化の問題が大衆化した結果だと言えると思います。
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