1:安全保障関連法案、何が問題か
日本の国家が「民主主義国家」か、「法治国家」かが問われる
「民主主義国家」の点では国民の過半数が集団的自衛権に反対、安全保障関連法案の成立に反対した。日本国家は国民主権を大前提としている。国民は国会議員を選出する。国会議員はあくまで、国民の意思を実行するために存在する。国会議員にすべてを授権し、好きにしてもらう制度ではない。国の行方を左右する問題では国民の意思を最大限に尊重することを基本とする。しかし、安倍政権は国民の反対の声に配慮することなく、強引に法案の成立を行った。民主主義を前提に国家の経営を行うという前提が大きく崩された。
「法治国家」であるかの点については
①大森、宮崎、坂田(少なくとも一時期)、角田元内閣法制局長官が違憲ないし疑問の発言
②山口繁・元最高裁長官「集団的自衛権の行使を認める立法は、違憲」
③憲法学者の約95%が違
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コメント
>>6
いろいろ述べたので、あなたには分からないかもしれません。しかし、それでは癪ですから分かり易く次のように要約します。
このコメントの最後の「楽観」という用語は安倍氏が単なる反面教師を演じるだけだという「見通し」です。更に敷衍すれば、安倍氏たちの解釈憲法とそれに基づく安保法制は国民の反対と東アジア諸国の厳しい反発に遭って彼らが志向する方向には一歩も進めない。その結果、「与えられた民主主義」が安倍氏の反面教師のお蔭で「自ら勝ち取った民主主義」へ移行するだろうという見通しを私は保有しているので、「日本は大丈夫。あの惨めな敗戦を再び経験することはない」と見て居るわけです。勿論、無条件ではない。国民のデモ等に依る政治行動が前提となります。
貴方は「楽観的なら投稿することはない」というが、私は同意しません。安倍たちは東アジアで孤立しているのだから、私たちがデモをして頑張って行けば、最終的には「WE SHALL OVERCOME」とということになる。新たなる政治行動への励ましは楽観的な今後の展開を確認し合うことだと思います。悲観論からは行動は生まれません。泣き言や悲観を述べるだけなら投稿しない方が良いと私は考えるのです。
>>7
えらい!よく言った。
>>7
あなたの説明よくわかりました。ただ、日本的霊性が染みついている人には、普通、「楽観はできないが、否定ばかりしていてはいけない」とか、「否定ばかりせず、楽観的にも見るべきではないか」というように説明していただけると、わかりやすいといえます。悲観論に立っているのではなく、心配しているのです。
日米と中国ロシアの対立した視点は納得しますが、多くの日本人はそのことを心配している人は少ないでしょう。世界戦争は、あなたと別の視点で、同じように楽観的です。米中の指導者を信用しています。多くの日本人が悲観というより心配していることは、米国のための米国の戦争に参加しかねないこと、参加すれば必ず戦死者が出ること、南アジアに出て中国軍と全面対峙するようになることを恐れているのです。これらは、たとえ、安倍政権が倒れても、現在の政治家は踏襲していくとみるべきであり、悲観的になることはないが、楽観論は否定しなければならないと考えています。
あなたは日米と中国ロシアの対立を視点としており、私は、米国の戦争に参加することに視点を置き、反対しているのです。ここに楽観論の行き違いがあったと思っています。
(ID:29834491)
1942年5月「日本文学報国会」が誕生し、詩部門の部会長は高村光太郎でした(孫崎さんの『日米開戦の正体』p.432)。欧米に留学体験があり近代精神を体得していたはずの光太郎が戦時中は戦争協力していました(ほとんどすべての文学者がそうであったように)が、敗戦後の自己批判の苛烈さで光太郎は際だっています。なぜ自分が戦争協力に導かれたのかを一連の詩(『暗愚小伝』)で解明しようとしたのです。それは一言で言えば、「天皇あやうし」という臣民意識でした。
そして自己批判の徹底から、戦後の民主主義が与えられたもので、本当に日本人民の手で勝ち取ったものでない軽薄さに気づいていました。
私は学生時代以来40年ぶりくらいに8・30国会包囲抗議集会に地方から参加しましたが、その時思い出したのが、「結果を思って行動するのは卑しい」という光太郎の詩の一節でした。強行採決されるのはほぼ決まっていたけれども、それでも抗議の声を挙げなければならないという気持ちでした。そしてハンストする学生達やシールズを実際に見て、この国の若い人たちが民主主義を本当に実現するために立ち上がっているという実感をもったのです。「いきいきした新しい世界を命にかけてしんから望んだ さういふ自力」が生まれているという実感。
冷笑する人も多いだろうと思いますが、私は「そういふ自力」に加担して行きたいと思っています。