最近、ダン・ブラウンの小説をよく読んでいる。彼は母校フィリップス・エクセター・アカデミーの英語教師である。卒業生の大半は著名大学に進学する。全員寄宿舎生活をしているから年間授業料等は5万ドルを超えるから、アイビー・リーグの大学より高い。
この教育を見ると、教師が教えるという授業よりは、生徒同士で議論する授業形態をとる場合が多い。
本日この問題である教育分野を研究している大学教授と話し合った。彼は次の指摘をした。
① 今日世界は大変な勢いで変化している。
② かつては大学は知識を教える所であった。しかし、この知識は急速に時代遅れになる。従って知識を教える教育はその意義を喪失しつつある。
③ 必要なのは、新しい事態の中、自ら選択肢を探し出せる人材を作ることである。この中では知識を覚える教育の重要性は低い。
④ したがって、フィリップス・エクセター・アカデミーの授業では先
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コメント
国会中継を見ていると、答弁に立った大臣が「仮定の質問にはお答えできません」という場面をよく見る。おそらく官僚の書いた答弁書を読んでいるのだろうが、将来起こり得ることを想定し、それに対処することこそ、政治に不可欠なのではないだろうか。だが、小学校時代から「優等生」だったはずの官僚たちは、先生の言ったことは丸暗記していても、「今後起こり得ること」を想定し、対策を考える能力はないらしい。
だから日米交渉で米国になにか言われると、反論もできず、素直に従ってしまうのだろう。原発を54基も稼働させながら、事故が起きては困るから「起きないでほしい」という願いが、「起きないはず」に変わり、事故の備えを怠ってきたから、いまだに汚染水処理の方法も見つからず、右往左往を続けている。
欧米では、小学校からディベート教育をしている。年齢に合わせたテーマについて、賛成派と反対派に別れて議論させるのだ。所定時間が来たら賛否を交代して、逆の主張をさせる。これによって、多様な考え方があることが身につくのだという。我が国で、こうした教育をなぜやらないのか、文部科学省に聞いてみたいものだ。
一部の偏った人間が討論しても、面白く新しい意見は生まれないと思う。今の政治や経済は、おっさんの加齢臭に満ち満ちていて息が詰まりそうだ。多様な価値観を認め、年齢や性別などにこだわらず、平等に発言できる空気や制度がなければ活発な議論は出来ないと思う。
大学は知性と自主性、真実を探求する心を獲得する場。地中海世界最古の大学であるエジプトのアズハル大学は随時入学、随時出席、随時卒業が大原則だった。万人に真理を探求する自由は保証され、自身で何を学び、何をもって卒業するに足る資格を得たと判断させるのも全てが自由であった。大学は自由と人間主義の砦、それ以外にありえない。
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思春期までは、さまざまなことを覚えることに重点を置いた教育で充分であり、いかに必要なことを効率的に理解し記憶させるかが、問われるのではないか。したがって、教育者のレベルに応じた教育結果が出るといえる。
問題は、思春期の自我をどのように乗り越え、自己を見つめるか、である。自己を見つめれば、自我にこだわっては発展性のないことに気づき、客体をそのまま直視するように習慣付けられるようになり、物事を見る目に幅が出来、限られた世界でなく、さまざまな世界が、綜観的に見られるようになる。
教育者に、一番大切なのは宗教的体得教育であり、物事をとらわれず、こだわらず、かたよらずの心が鍛えられるかどうか、自己を厳しく見つめられるかに、かかっているように考えています。日本は無宗教であり、一番の問題点かもしれない。