孫崎享著『日本国の正体』中、農業②キャンペーン型稲作 ベンダサン
イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』(山本書店、一九七〇年)は日本人論の傑作である。著者はユダヤ人という触れ込みであったが、山本七平であるというのが通説である。ただし執筆において、外国人が論議に関与した可能性が高いので、ここに掲載した。
・日本の稲作は、気候の点で無理があるから,否応なし、待ったなしの緻密な計画のもとに手ぎわよくやらねばならない。三月に苗代、梅雨期に田植え、台風前の結実、秋の快晴に取り入れといったスケジュールは崩せない。
・中世の日本では人口の八十五パーセントが農民だったというから、国民のほぼ全員が一千数百年にわたってこういう訓練を受け続けてきたわけである。従って、一定期日を定めて、そこから逆算し、いわゆる秒きざみのスケジュールで事を運ぶ点では、全世界広し言えども日本人の右に出る者はいない。
・このキャンペーン
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随筆、少なくとも今日は上田初美さんの様な素晴らしい随筆はとても書けないので、紹介します。 転載・上田 初美著通算成績は“棋士人生の集約” 将棋夫婦の我が家で「当分の間、争いになりそうなこと」夫と私の数字が比較的近いことが発覚して……
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総務省問題で官僚を考える。私の著書『日本国の正体』中、ラフカディオ・ハーン『神国日本』より。日本の教育は個人を独歩の行動に鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練すること。
コメント
(1)
力を持つ側に都合のいい多数説なら、日本に係る現象が在るのは明らかだ。だが、ピタゴラスの時代も、「直角二等辺三角形の斜辺は整数比でない」と発見した者は異端として海に沈められたという。
一方、日本の学生等、若者達が一様に同じファッション、ヘアスタイルに染まるのは、他国には無い現象でないか。そうしないと、まるで賑わうビーチにスーツで居るようなバツの悪さなのだろうが、日本では皆と同じでないと自ら居心地が悪くなるよう教育されてもいるだろう。
(2)
「皆が食べていくために少数説は排除」があったとすれば、それは民衆が生きて行く上で合理的な判断だったからでないか。しかし、もはや気候は支配的でないのに「少数説排除」を引き摺っているのは、今だに「人はパンのみにて生くる者でアル」が支配的だからだろう。官僚組織等の少数説排除には「合理的な判断」の欠片もないからだ。
(3)
狩猟条件は獲物の動き一つとっても変化が目まぐるしい。猟師 個々人の判断を重視せざるを得まい。
コメント採り上げ恐縮です。“他国には無い現象”→ ①かつて数年ブラジルに住んでいた知人曰く「ブラジルには日本のような『全国的流行』はないなァ」②スイス旅行で街を行き交う人々を眺めていた時の印象━等からの推察です。
網野善彦の一連の著作を読んでみると、今回の記事中の
>>中世の日本では人口の八十五パーセントが農民だったというから、
>>国民のほぼ全員が一千数百年にわたって
>>こういう訓練を受け続けてきたわけである
というイメージが正しいのかどうかよくわからない。
網野によれば、中世の日本人はもっと多様だったようだし、
「日本人」自体が、地理的な「日本」に閉じたひとびとというわけでもない。
もっとも、網野もわたしが読んだときはすでに古典同然であり、
同時に、批判も多くなされていたと記憶しているが、
結局学問的に最近は網野説をどう見るのが正しいのか浅学ゆえに知らない。
どうであれ、『日本人とユダヤ人』は、網野「前」の著作であり、
そこに描かれた日本人観は、再検討を要するのではないかと感じている。
『日本人とユダヤ人』はひとつの著作として面白いが、
書かれていることの一般化には注意が必要であろう。
ただし「同調するようにとの強い圧力」については、重要な問題である。
これについては、自分のいる「社会」の具体例からかんがえるほうが、
著作からかんがえるよりも、深くかんがえられるのではないかと感じる。
たとえば、この孫崎ブログでは、「同調するようにとの強い圧力」は
あるかないか。一年前はあったかなかったか。「同調するようにとの強い圧力」が
あったとして、その圧力をかけていたヒトビト(私見では三人以上いる)は
それを自覚していたか。
(ID:117221150)
①食料を貯蔵できることを知れば、刹那的行動でなく、計画的に食料を確保しようとする。
②生きるための計画性を図れる人は、「知恵」のある人であり、無計画行動をする人と年月を経る間に格差が出てくる。
③計画的行動が必要と分かれば、集団的行動で収穫確保の生産性を上げようとする。
風水害・地震など自然災害は特に日本では顕著であり、命令する人がいなくても、日本人は生きる道を一人一人が強く認識している。認識すれば、共同作業・共同行動が強い支持がなくとも当然のごとく協力するし、協力するのが当たり前になる。
日本人は、自然と一体であり自然に逆らわって自然を支配するなどという考え方が出てくることがない。労働が当たり前であり、働けない人に対しては皆が助け合って支援する。国民が一つの家族のようであり、自然災害だけでなく、感染症に対する行動も本能的に「隔離」などの方向性をとるのは、歴史的に隔離施設を作ってきた歴史が証明している。
日本で大きな問題は、感染症に対しては先進国であり、感染症に対して特に対策をとらなくとも感染症を克服してきた。
問題は、命を大切にする考え方が行き過ぎ、予防接種なども強制でなくなった。日本は感染症先進国という前提から強制が排除され、今回のコロナでかなり打撃を受けた。アジアのほとんどの国が感染症で苦しんできた経験から感染症対策が万全であり、感染者数・死者数で後れを取っている。
敗戦以後、共同して外敵に対する行動が自衛に限定してしまったため、皮肉にも自然災害にも感染症にも受け身になっており、軍事だけでなく様々な面で弊害が出てきている。日本人の素晴らしい特性をあまりにも「規制」し続けている現実を直視し、特に軍事面の見直しが急務になっている。中国の脅威を直視し適切な行動が不可欠になっている。
中国の様子を見ていると、香港に対する方針は、「十二字方針』=「一国両制、港人治港、高度自治」の見直しを習近平が打ち出しているが、今までにもかなり批判的行動をとってきた李克強が「十二字方針」踏襲を言っており、大きく割れてきている。昨年301万の小規模店が倒産しており、同じように消費が3.9%も減少しており、習近平が貧困を脱却したというのは「嘘」であることが明らかになっており、巨大な失業者が出ているはずである。習近平体制に暗雲が出てきているのではないか。