私は右翼、鈴木邦男氏と若干親交がある。一水会代表の木村三浩氏とも何度か一緒になったことがある。
二〇〇九年だったろうか、 「伊達裁判を考える会」で講演を頼まれ、出かけたら、鈴木邦男氏がおられた 。東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)が1959年3月「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、憲法前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である」という判決を下したのが「伊達裁判」である。
文化放送の「夕焼け寺ちゃん」にまねかれたら、そこのレギュラー・コメンテーターが、鈴木邦男氏であった。ニコニコでも一緒に対談したこともある。
この、鈴木邦男氏から、本年出版された『秘めてこそ力』を戴いた。
幾つかを抜粋してみたい。
似て非なる右翼とネットウヨク
全共闘とか戦いをやった人は、それなりに体験で学んでいるけれど、学んでいない人たちは、直接自分と国家
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コメント
「ネトウヨ」とは、「マスコミ」の作り出すゴミの一つです。彼らのHPを見れば直ぐにわかります。兵器オタク、軍事オタク、飛行機オタクの内容です。彼らは愛国者気取りで「反日」だとか自分の気にいらなとレッテル貼りに専念しています。「反日」の意味も非常に曖昧で話になりません。まさに「マスコミ」の垂れ流すデマに踊らされているかわいそうな連中かもしれません。
そもそも愛国心に右も左もないと思っていました。鈴木邦男氏の言葉を聞いていると、「愛国心」は決して右翼の専売特許などではなく、恰も素晴らしい富士山を右からあるいは左から登っているだけの差しかないのねではないかと思われて来ます。
思い出して下さいベトナム戦争を。50万の兵と核以外の全てのハイテク兵器を使ったアメリカがゴム草履を履き穴蔵で寝起きしていたベトコンに負けたのです。理由は”左翼”ベトナム人に国を思う心が米兵の幾百千倍もあったからです。
ネットウヨクの国別棲息比率:日本―**% 米国―**%...などとどこかが調査してくれたらありがたいですが、今この瞬間にも次から次へとネトウヨが湧いているのが現状でしょう。
のびのびと大らかな大人にまず出会うことがない社会の反映ではないでしょうか。
(ID:1296840)
ネトウヨは「自分は愛国者だ」と自らを崇高で高尚な位置において、他人を自分より低い位置に貶めることしか考えていない”単細胞”的な連中が多くてうんざりする。ものごとを多面的に見るとか、目に見えるものだけに拘らずに裏に潜む何かを探ってみるとか、他人の意見を尊重して耳を傾けてみる(同意するかどうかはその後の話だ)とか、他人と意見を交わして論じ合うことによって新たな発見を見出そうとか、こういうことができない(あるいは知ることがない?)まま、実年齢だけを重ねて”大人”になってしまった典型であろう。自分の頭で考えるということができていない証拠だが、たぶん本人は気づいていない。
その恐ろしいまでの執念深さ、攻撃性たるや、すさまじいかぎりだ。何よりも言葉づかいの酷さ、下劣さときたら、目を覆わんばかりではたで見ているこっちが恥ずかしくなり、いたたまれない気持ちにすらなる。その残虐さ・暴虐性ときたら、虫の羽を平気でむしるような子供じみた幼稚性と何が違うのだろう?長年かけて自称プライド、その実単なる虚栄心というものまでが加わり、ますます修復可能なまでにねじくれてしまった根性くらいだろうか。一度その方向を向いてしまうと、修正不可能なかたくなに突っ走り、後戻りもできなくなるという愚かさも顕著であると思う。それが彼らを更なる極端へと追い立てるのか。暴走機関車のように自分では止められないのだろうか。単に他によりどころとなるものがないからなのだろうか。であればこれほどみじめで貧相な人生はない。
現実世界の鬱屈した感情をぶつけているだけなのだろう。くだらない気晴らし程度のお粗末さでしかない。ゲームセンターで画面に映る敵を打ち殺してスカッとした気分になっているのと同じ。まるで生産性がない。自分では何もできずにただ酒をあおって現実から目を背けてはくだを撒いては酔い潰れるダメおやじとも変わらない。どこまでも後向き。違法な薬物で脳内物質の流れを変えて、いい気分になっちゃっている人たちとも違いが見えない。一瞬だけ気分は晴れた、でも現実は何も変わっていない。それどころか、中毒性に溺れていくばかり。結局は現実逃避しかできてないのだ。そこに建設的なものが何か一つでも生まれてきているのだろうか。何か新しいものが見いだせたのだろうか。何もないというのであれば、現実逃避の手段として、右翼という概念を利用しているにすぎない。気の毒に、目の前の現実と向き合う勇気すらないんだろう。そして愛というものをひとつとして示すことすらできない。心の底から深く同情する。
こういう人が「愛」という文字のついた概念を声高に叫ぶ違和感といったら、ない。