今、米国の歌手ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するのか否なのかが話題となっている。
この問題で、私は「過去自らの意思で辞退は、仏哲学者サルトル氏(1964年・文学賞)と、北越政治局員レ・ドク・ト氏(73年・平和賞)の2人。レはパリ協定でキッシンジャーと共に受賞]。レは『越にまだ平和が訪れてない』と辞退。」とツイートした。
様々の反響があった。
・平賀健:大岡昇平。1972年(昭和47年)、日本芸術院会員に選ばれたが
「捕虜になった過去があるから」と言って辞退した。←戦友に申し訳ないということ。
・杉村春子(1906-1997)1995年、 文化勲章で、
「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」
と周りの説得も聞かず辞退した。
Takeo Anzai :レ・ドク・ト氏はこうも云ってます。ノーベル賞を頂くには「余りにも多くの命を失
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「ディラン氏は無礼で傲慢」ノーベル委員長苦言。文部省が、漱石に博士号を与えると通告に、漱石が受領を拒否。一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をするというような気風を養成するのは害。
コメント
「サルトルのノーベル賞辞退理由」ご紹介を有難うございます。
孫崎さんも大いに共感されたのではないでしょうか。
簡単に言ってしまえば、しばしばツイートでも批判されている「権力側に飯で飼われるメディアの記者」などと一緒にするな-ということでしょう。
ゲバラが死んだ時も「彼は優れた知識人であるばかりでなく、武器と理論で自分の理想を守った。我々の時代の最も完璧な人間だった」と評したことを読んだ覚えがあります。
しかし、ノーベル賞受賞、金メダル獲得、世界遺産登録、等々に毎度 中身なく大ハシャギするのも大方の日本人のサガなのでしょう。
>>4
いろいろ新規な視点を得てとても勉強になります。日本の小説家にサルトルほどの骨のあるやつはいないのは確かですね。ただ、サルトルも勿論ですが、平賀源、大岡昇平、杉村春子、レ・ドク・トは賞を辞退することによって自分が世間に訴えたいことをより鮮明に世界に伝えようとしているように思えるのです。彼らはとてもちゃっかりしている。賞を与える側はたまったもんじゃない。
そんな中で山本周五郎の直木賞辞退は異色です。周五郎は日頃から俗物として見下していた大仏次郎や菊池寛が与える賞を若い奴に与えろと言って辞退した。周五郎はそうすることによって鬱憤を晴らした。そういう周五郎の人間臭さに私は惹かれます。
フランスには「ダンディズム」が表現として意味をもつだけの文化的基盤がある。
日本でそれやったら無事じゃ済まないだろう。大衆がそれを支持しない。
気骨もそうだが、サルトルのプライドは高く、たかがノーベル賞ごときがおれの哲学と文学を評価できるか、くらいのものがあったのではないかと推測する。俺の方がノーベル賞よりデカイ、くらいのことは考えていたろう。
マスコミやノーベル賞委員会による評価は、反体制的な人びとにとっては「揉み手」のすり寄りの意味をもつ。
その観点から見れば、反体制派であるボブも、ノーベル賞を下に見ている可能性がある。ボブもダンディズムのスタイルで売ってきた。
ノーベル賞が「すごい」という前提で考えるとこれは見えない。
(ID:19005377)
やはりジャン・ポール・サルトルは偉大ですね。
サルトルをこよなく愛する大江健三郎は勿論孫崎先生がお示しになったサルトルのノーベル賞辞退のこの言葉を知っているでしょうが、彼には巨額の賞金を喜んで受け取っている節がある。大江健三郎の賞金受け取りに関するコメントは確かには覚えてないが尤もな言葉をつぶやいていたのを思い出す。されど、お金はやっかいな存在です。
政治の世界で右翼、左翼、リベラル、ネオコン、シオニスト、他種々のレッテルが使われるが、紛らわしくて仕方ない。私はお金に転ぶ人、お金に転ばない人の二つにまず区分して政治家を吟味することを提唱したい。
サルトルは文学者であるとともに政治の人です。そしてお金に転ばない政治の人だったと言えます。