第7回 1984年、見えない始まり。
1984年春、僕は仙台からプロレスラーになるために上京した。同じ頃、プロレス界に新しい流れが産まれようとしていた。1984年4月11日、大宮スケートセンターで旧UWFが旗揚げ。
世の中には、目には見えない不思議な流れがあるのかもしれない。それを偶然として無かったものにするのか、それとも必然として手にするのかも、実は本人次第なのかもしれない。たまたまは偶然でなく必然として存在するものなのかもしれない。これまで長く格闘技と関わり、その変化を現場で経験してきた僕はそんなことを思ったりもする。
僕はたまたま色んな格闘技をやってきた。そして今、武術を学ぶ。それは必然なのかもしれない。たまたまを必然にする作業が、人生のやるべき作業なのかもしれないとも思う。
僕にとってのたまたまは、中学2年生の正月に始まった、偶然テレビで見たプロレス番組だった。僕が中学生の頃のプロレス人気は、現在の比ではない。毎週金曜日の午後8時には新日本プロレス、土曜日の午後8時には全日本プロレス、月曜日の午後7時には国際プロレスが放送されていた。週に3回もプロレスが地上波で放送された時代が、かつて本当にあったのだ。もっとも、国際プロレスは東京12チャンネル(現テレビ東京)がキー局だったので、仙台では放映されていなかったけれども……。
かつて、プロレスは日本人にとって欠かせない娯楽だった。当時の新日本プロレスはアントニオ猪木が異種格闘技戦を行い、ライバルの全日本プロレスと鎬を削っていた。全日本プロレスは豪華絢爛な外国人選手を誇り、身体が大きく圧倒的な存在感を持つジャイアント馬場がエースとして存在し、団体を経営していた。
当時の海外ルートはほぼ全日本プロレスの独占だったともいえる。アブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークが組んで、ザ・ファンクスと闘った世界最強タッグリーグ戦が師走に、真夏にはミル・マスカラスがやって来て、日本全国のプロレスファンを熱狂させた。当時、世界最高峰のNWA世界王者も定期的にやって来るなど、プロレスファンから羨望の眼差しで見つめられた。それくらい当時の全日本プロレスの存在感は圧倒的だった。
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