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 前回、後藤和智師匠の同人誌をご紹介し、師匠の「ビッグさ」についてお伝えしました。が、師匠、この同人誌を出す前にツイッターでつぶやいていたことに、後になって気づきました。
後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugoto2017年12月3日

冬コミ評論新刊でいちばんやりたくない本のOCR作業に取り組む。

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugoto2017年12月3日

H頭S児『ぼ○○ちの○災社会』(二○書房、2008年)。結論から言うと、最初から最後まで何を言っているのか本当にわからなかった。個別事例と表面的な統計だけで、セクハラとかストーカー概念の成立とかを検討しないだけで「男が被害者になっている」的な議論を展開していて、(続く)

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugot2017年12月3日

そして内容の薄さを紛らわすための(?)ネットスラングやアニメの台詞の転用とか、正直痛々しかった……*1

https://twitter.com/kazugoto/status/937317413590261761

 すごいです。
 後藤師匠は本当に、さっぱり理解の及んでいない本を、本当の本当に単語だけ切り抜いて「表面的な統計だけで」語ってしまっていたわけです*2
(ちなみに拙著の出版年が2008年となっていますが、実際には2009年)
 普通、「さっぱりわからない」などという発言は言葉のアヤというか、「反論したいがそれが適わない」場合に仕方なく悔し紛れで口をついて出てくるものだと思っていたのですが、師匠ともなると「本当の本当の本当に、読解すること適わなかった」ご様子です。
 まあもっとも、実のところ、ぼくも上のツイートの「表面的な統計」、「セクハラとかストーカー概念の成立とかを検討しないだけで」という部分の意味が「さっぱりわからない」のですが……「表面的な統計」って何でしょう? 上には「師匠の本こそ」とは書いたモノの、確かに何の関連性もない恣意的に選んだ単語を著作からカウントし、その単語と何ら関連性のない方向性がその著作にはあるのだとの結論を導き出すやり方は「表面的な統計」の域を脱しているかも知れません。むしろ、「事実の二次創作」というクリエイティビティを獲得していると言えましょう。
 後者に至っては文章として成り立ってませんが、わかる人います? これ、恐らくは「兵頭はこれら概念の成立過程について語っていない」と言っているのでしょうが、ぼくの本を読めば一目瞭然、語っていますよね。そう、「セクシュアルハラスメント」という言葉は本来「労働用語」であったものを、フェミニストが拡大解釈し、ねじ曲げて広めた、というのが経緯でした。
「ストーカー」の方は「成立」過程については書きませんでしたが、この言葉が広まるきっかけになった著作については言及し、その翻訳者の著作を採り挙げ、言葉の受け取られ方について十二分に検討していることは、読んでいただければおわかりになるとおりです。
 そんな自明のことすらも、師匠は理解する能力がない。
 いえ、それよりも、そもそも、それ以前の問題として、ぼくの主張はこれら概念のメディアでの扱われ方、法律上の扱われ方がヤバいというモノであったのだから、仮に「成立過程」それ自体について語っていなかったとしても、それがことさら問題だというのはさっぱり意味がわからない。
 フェミニストやフェミニズムを擁護しようとする人たちは、見事なまでに例外なく「全く言いがかりになっていない言いがかりを相手につけた後、惨めに敗北を喫して、しかしどういうわけかガッツポーズを取る」人たちばかりです。彼ら彼女らの提示する「論理」も「事実」も、その両方が必ず間違っているのだから、読んでいて頭がおかしくなりそうになります。
 いずれにせよ、これでは『男性権力の神話』の方も本当の本当の本当の本当に理解が及んでいなかったのだろうと考える他ありません。当然、『電波男』についてもしかりでしょう。前回、師匠が政治的意図で事実をねじ曲げているなどと書き、侮辱したことをお詫びします。師匠はそんな狡猾な人物では決してなく、そもそも文章が一切読めない方であったのです。だから単語のカウントだけでモノを語っても、仕方がなかったのです
 どうやら「悪の組織」に捕まると、本当の本当の本当の本当の本当に脳改造手術を受けるようです。
 でなければ、「組織」に理がないとバレて逃げられてしまいますしね。
 本当の本当の本当の本当の本当の本当に、怖いですね。

*1「表面的な統計だけで」の惚れ惚れとするようなブーメランぶりについては前回参照。
*2 「内容の薄さを紛らわすため」漫画ネタで相手を罵倒するという惚れ惚れとするようなブーメランぶりについては前回参照。

 さて、前回の補遺はこれくらいにしまして。
 実は今年最初のブログネタは上の書と、もう一つ、同じく冬コミでゲットした『30年目の「10万人の宮崎勤」』にしようと考えていました。あまりにも師匠がビッグでここまで引っ張ってしまいましたが、急ぎ、こちらの書についても簡単に触れておきましょう。
 本書はタイトルどおり、三十年前の宮崎事件におけるオタクについての報道を検証した本です。
 宮崎事件というのは……詳しくない方は各自お調べください。
『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』において、宮崎はまるでオタク文化の創始者であるかのように書かれ、海燕師匠が「デタラメだ!」と大袈裟に騒いでおりましたが*3、「マスゴミ」がオタクの敵として可視化されることでオタクが団結するきっかけを作った、まあ、ある意味では功労者としての側面はあるなあと、ぼくなんかは思ったりもします。
 今回語りたいのもそういう感じのことなのですが、まずは本書についてご説明しましょう。本書のテーマになっているのは、「事件当時、ワイドショーのレポーターがコミケに取材に来て、『ここには十万人の宮崎がいます!!』と絶叫した」という都市伝説の真偽です。そう、この都市伝説はかなり流布して信じられ続けていたモノだが、どうもウソらしい、というのが本書の要旨なのです。
 なるほど、もしそうしたことが本当にあったなら、もうビデオも普及していた時期なのだから、絶対に映像が出てくる。ウソだと断言はできないが、まあ、ほぼそう考えて差し支えないのではないか……とぼくも思います。
 が、同時に当時のオタクに対する世間の視線は、言ってみればそうした都市伝説が「いかにもありそうなこと」に思えるほどに、非道いモノであったということも事実のわけです。
 しかし……ぼくが感じたのは、本書が当時の「オタク内オタク差別」こそが非道かったということの記録に(ちょっとだけ)なり得ているな、というものでした。
 ぼくが本書を読んでいて一番興味深かったのは、取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーに対し、コミケのサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげな罵倒をする様子でした。

「べたっと油っぽい長めの髪に眼鏡をかけていて開襟シャツに肩掛けカバン。すぐに文句をつけ、自分に権利ばかり主張する(原文ママ)。宮崎のクローンみたいな連中ですよ」(サークル関係者)
 週刊文春1989年8月31日号「ロリコン5万人 戦慄の実態 あなたの娘は大丈夫か」
(12p)

「ロリコン5万人」というフレーズといい、「もう、この三十年前の文春砲こそが件の都市伝説の出所ってことでいいんじゃないか」と言いたくなる非道い記事ですが、それよりも引っかかるのは著者のdragoner氏が「コミケ参加者による身内批判になる」と言うのみで、まるでこのコメント自体には問題がないかのような断り書きを入れている点です。
 当時は「俺だけはこいつらの仲間じゃない」と仲間であるはずの他の連中を、憎悪に狂った目で罵倒することが「オタクしぐさ」でした。それはまるで、デスゲーム漫画で「最初にその場から逃げだそうとして真っ先に殺されるキャラ」の如くに。
 しかし、では、こう答えたサークルの彼は真っ先に殺されたのかというと、そうではない。恐らく、今やオタク界の中央でふんぞり返っていることでしょう。
 その証拠に、本書には現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠への取材もあるのですが、彼は当時の作家たちについて

エロパロとかやってたんですが、買った人に対して「ハハ! こんなのお前ら好きなんだよな!」と小馬鹿にするような、最後のページをめくるとオッサンの顔が笑ってるとか、そういう非常にロックな作風で、とろろいもと言えば、我々の世代の共通認識として刷り込まれています。
(29p)

 などと忘我の表情で追想しているのですから(奇妙な名前ですが、「とろろいも」というのは同人作家のペンネームです)。
 この「ロックな」という表現と共に、文中では「パンクな」との形容も飛び出しております。たまらなく恥ずかしいですね
 近いことは『ニューダンガンロンパV3』の時にも書きました。当時のオタク界は(今でもそうではあるけれども、輪をかけて)「クリエイター様エラい主義」が濃厚で、選ばれたエリートたるクリエイター様が本を買うだけのゴミクズのような消費者に過ぎぬキモオタどもを貶める様が絶対的な正義として、快哉を浴びておりました。そう、上のサークル関係者の言、今なら絶対にネットで炎上してしまう類のものですが、当時は普通だったのです。「俺たちはこいつらの仲間じゃない」とコミケの自分のサークルのエロ本の列並んでいる連中を、憎悪に狂った目で罵倒することは「オタクしぐさ」として正当化されていたのですから。そんなことが、業界の上の連中によって(オタク雑誌にオタクを侮蔑する記事をバンバン載せることによって)主導されていたのですから。
 かつてはそんな挙動に出ていた一部の人々は(兼光師匠自身がそうだとは言いませんが)「歴史修正」に邁進し、自分たちこそがオタク界のトップであり、オタクの味方なりと絶叫を続けていますが、その内心は今も変わらぬ、オタクへの憎悪で満ちています。違うのは『嫌オタク流』の作者と違い、オタクを金づるにした、ということだけです。
 そして……先に書いたことは、この事件がオタクを団結させるきっかけを作ったことで、「オタク内差別」が終焉したのでは……ということなのです。いえ、実際には「オタク内差別」なんて今でもあるわけですが、「俺だけはオタクじゃない!」と絶叫していた人々が「オタクの味方のフリ」をしている現状は、考えようによっては当時よりも遙かにマシなわけです。
 ……が。
 しかしそれは同時に、もう一つの史観も描き得ます。
 それはつまり、「オタク界のトップ」が「マスゴミ」を仮想敵にすることでオタク界を統一した、という考え方です。いえ、本書で頻出するコミケ関係者たちをこそ「オタク界のトップ」であるとするならば、この時期より以前から統一されていたと言えるのですが(ネット以前のコミケやオタク雑誌なんて、ものすごい影響力がありましたしね)、「マスゴミ」を仮想敵にすることでより支配力を高めたのでは……といった史観も成り立ち得ます。
 何しろ、上の兼光師匠のインタビューでは、延々延々と宮崎事件と直接関係のない表現規制問題とやらが実に饒舌に語られ、読んでいていささか辟易としました
 更に、また別なスタッフへのインタビューでは「(この当時の表現規制問題は)宮崎事件が火元といえば火元」との答えが返ってきています(39p)。
 そりゃあ、「間接的影響があった」とすれば何でも言えてしまえますが、しかしこの時期の規制問題は第一に、まず「メジャーな小学館などの雑誌にわいせつな漫画が」ということが発端であったはずです。
 つまり本書は、図らずも「宮崎問題」を「表現規制問題」へとすり替えていこうとする「オタク界のトップの手つき」の記録映像となってしまっているのです。
 逆に、彼らの言を見ていて疑問に思うのは、宮崎事件は当時「ホラーオタ、特撮オタ」の犯罪とされた側面が何よりも強かったはずであるにもかかわらず、そこに対する言及がまず、ないことです。事実、当時はこの事件の影響で『仮面ライダー』が打ち切られている(『RX』の後番組が考えられていたのが、頓挫している)のですが、不思議と彼らはこれには触れない。
 というのもやはり彼らが「エロ本屋さんの論理」で動いているからです。
 もちろん、それは彼らが「エロ本屋さんだから」であり、それはそれで悪いことではないかも知れません。しかし、『仮面ライダー』の打ち切りには一切の興味を持たず、裏腹にろくでなし子が逮捕されるや、ホモの男児へのレイプを擁護した時のフェミニストくらいの勢いで擁護するエロ本屋さんが、果たしてオタクの代表であり味方であるかと言われると、微妙なのではないでしょうか。
 ぼくが「オタク界のトップ」の手先を「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄すると、「俺はオタクだ」とすごく心外そうな顔をしてきます。それは確かにそうであろうし、大変申し訳ないのですが、しかしそれでも、やはり彼らのトップは、少なくともオタクの誠実な味方ではなかったということが、本件からもわかろうというモノです。
 最後に、先のスタッフインタビューに戻りましょう。
 インタビューの締めでは今のコミケやオタクの状況について、スタッフ(市川孝一師匠、里見直紀師匠)が語ってくださいます。

市川:昔から比べれば、住みやすくなったし、オタクって自分から言いやすくなった。昔は自分からオタクって言うこと自体が難しかったんですけど、今はもうオタクって言いやすいし、親にもコミケット行くって言っても今は普通になっているし、「晴れてきたな」って気がしますね。
(43p)

 将来の明るさを暗示するかのような言葉です。

市川:中にいる人のほうがイキりすぎなんですよね。外からのほうがだんだん柔らかくなっていますよ。
(43p)

市川:ホントはもうちょっと中にいる人の方がオープンになるべきだと思いますけどね。
(中略)
里見:もう被害者意識はいいんじゃない? って気はしますけどね。
(44p)

 ……って、全然被害者意識が晴れてないやないかいっ!!
 この「中/外」という物言いは「コミケ、ないしはオタク界の中/外」という意味で使われているのですが、オタクのコンプレックスが解消されていると言っておきながら、いまだオタクがマスコミを敵視していると苦言を呈するのは、単純に矛盾しています。見ていくと「若い人の方が気にしていない」との指摘もあり、そう考えれば一応の辻褄はあうのですが、それならば「過去に非道い目に遭った世代は簡単に被害者意識を覆すことはできない」のはある意味、当たり前のことでもありますし、そこを「若いヤツは屈託ないんだからお前ら老害も被害者意識なんか持つな」という物言いは、あんまりでしょう。
 何よりぼくが気になるのは、このスタッフたちの言葉が「30年前のあの日の、サークル関係者の言」と、「完全に一致」を見ていることです。
「ここには十万人の宮崎がいます!!」と絶叫したワイドショーのレポーターは、恐らくいなかったことでしょう。しかし「マスゴミ」の取材に対し、お追従笑いを浮かべながら「ここには十万人の宮崎(のクローン)がいます!!」と絶叫したオタクはいました。
 そしてそのオタクが何者だったのか(今では名を成している漫画家さんなのか、無名でとっくの昔に脱オタしているのか)は、もちろん今となっては確かめようはありません。しかし一つだけ言えるのはそんな彼の同年代が、今や「オタク界のトップ」の座に着いているのだ、ということです。
 あれから三十年。オタクは変わりました。
 オタクを取り巻く環境も大きく変わりました。
 しかし、「自らをオタク界のトップだと思い込んでいる一般リベ」の「オタクに対する態度」だけには、少しも変化がなかったのです。

*3 もちろん、当該書がデタラメに満ちていることはぼくも指摘したとおりなのですが、呆れたことに師匠、この時点で本を通読していなかったと言います。そうした不誠実な態度で期を見るに敏な振る舞いをする者は、メリットが多くて羨ましゅうございます。