「インサイド・ヘッド」はピクサーそのものがテーマの映画だ(1,925字)
「インサイド・ヘッド」を見た。ピクサーの映画だ。
ぼくはピクサーが大好きで、ピクサーについてのいろんな本を読んだり、記事を読んだりしてきた。ピクサーのビデオを借りたら、そのメイキングも必ず見るようにしている。そして、その映画がどのように作られたか、ずっと研究してきた。
ピクサーの考えというのは、非常に明確だ。ピクサーの監督の一人、アンドリュー・スタントンがTEDで講演をしたことがあるのだが、そこにはピクサーの考えが凝縮している。だから、これを見ればピクサーというのはどういう考え方をしているのか、おおよそのところがつかめるだろう。
まず、ピクサーは自らがとても大きな会社であることを意識している。大きなビジネスをしていることを意識している。というのも、映画を大ヒットさせて大きなお金を得て、それを資金にアニメーションの研究開発に打ち込み、またそれをヒットさせるという取り組みを継続しようと思っているからだ。
彼らは、まずアニメの新しい技術を開発したいという研究者集団の側面を持つ。
そのため、巨額の研究費を必要としている。たくさんの優秀な人を、たくさんの給料を出して、長い時間(数年)雇わなければならない。
その資金を、映画を当てることによって稼ごうとしている。
その意味で、ピクサーの経営は自転車操業的なところがある。彼らは絶対に映画を当てなければならない。もちろん過去の貯蓄がないわけではないし、キャラクタービジネスなど継続的にお金を稼ぐ手段もあるものの、それでも失敗は許されないという切羽詰まったところでやっている。
そこで彼らは、映画を作る際には、ヒットさせるためその方法論をぎりぎりまで突き詰めるという考えになった。特に、ストーリーの作り方についてはこれでもかというくらいに突き詰めた。もともとは、中心的な存在のジョン・ラセターに物語を作る才能があったのだが、それを個人のものにしておくのはもったいないと思ったラセター本人や社長のキャットムルや元のオーナーであったジョブズなどの方針で、それらを才能あるスタッフたちと共有するようになっていた。そうして、すぐれた監督が何人か育っていったのだ。スタントンもその一人だ。
ピクサーには、練り上げられたストーリー作成のためのマニュアルがある。もちろん、これがあるからといっていつもいいストーリーができあがるわけではなく、失敗も多い。
しかしピクサーの素晴らしいところは、自らの失敗に気づいて引き返すためのシステムが何重にも張り巡らされているところだ。失敗に制作途中で気づけるのである。途中といっても一年も二年も経っていることもあるが、とにかく公開前に気づいてなんとか修正する。だから、外れが少ないのである。
そうした中で、今回「インサイド・ヘッド」の監督を務めたピート・ドクターは数学者のような風貌をしている。彼は科学者のように冷徹に突き詰めて映画を作る。彼は「モンスターズ・インク」や「カールじいさんの空飛ぶ家」を監督したことで知られる。そして、ピクサーの他の映画にもさまざまな形で携わっている。
ピクサーの映画というのは、どれも共同作業で作るので、誰が監督かというのは他の映画に比べてあまり重要ではない。脚本は常に五人くらいの協力体制で練り上げられる。だから、監督はその責任者、及び指揮者みたいな役割だ。ストーリー作りから、すでに個人の独創に委ねていないのである。
そして「インサイド・ヘッド」は、そういう作品である。どういうことかというと、これはピクサー自身がモデルのようなストーリーなのだ。ライリーという女の子がいて、その頭の中には五人のさまざまな人格がいる。彼らが協力したりぶつかったりしながら、ライリーという女の子を動かしていく。彼女の人生を作っていくのだ。
つまり、頭の中のさまざまな感情がピクサーのスタッフであり、ライリーはピクサーが作る映画だ。そういう入れ子構造に、この作品はなっているのである。
ここ数年、エンタメのテーマは映画制作者自身に向かっている。それが大きなトレンドである。
例えば「バードマン」「SHIROBAKO」がそういう作品だった。「風立ちぬ」も、宮崎監督は主人公の飛行機を作る姿に自分がアニメを作る姿を重ね合わせていた。
その影響かどうかは分からないが、ピクサーも自分たちの映画の作り方をテーマにした映画を作ったというわけである。
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