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今回の「総合格闘技が生まれた時代」シリーズは、元パンクラス代表の尾崎允実氏が登場!
93年に船木誠勝や鈴木みのるとともにパンクラスを立ち上げた尾崎氏は、90年代の狂った熱を全身で受け止めたひとりである。第二次UWF、パンクラス、リングスとの抗争、マスコミとの確執……15000文字インタビュー!
――いまは映像制作のお仕事をされている尾崎さんですが、かつてパンクラスで苦楽を共にした船木(誠勝)選手や鈴木(みのる)選手とは連絡は取ってるんですか?
尾崎 というわけではないんですけど。いやもう、船木と過ごした時代は本当に大変だったので(苦笑)。
――凄い時代でしたよね。
尾崎 あの頃を振り返れば、鈴木は放っておいても安心できたんです。よけいなことを言わなくても任せておけばいいというか。船木のことは信用してないわけじゃないんですけど、なんて言えばいいか……。
――船木さんは研究に没頭する学者タイプですよね。そういう人間に向き合うとすると全勢力を傾けないといけなくて。
尾崎 だから大変なのかもしれませんね。でも、彼と一緒にいなかったら経験できなかったことばかりで。それは鈴木にも言えることなんですけど、パンクラス以前の(新生)UWFの頃から付き合いがありましたから。
尾崎 もともとボクは大学生のときにアルバイトで『月刊プロレス』編集部に入ったんです。
尾崎 ええ。どうして『月刊プロレス』に入ったかといえば、ボクは映像制作志望だったということもあって、テレビ朝日でアルバイトADをやってたんですよ。それで『おはようテレビ朝日』の現場にいたんですが、そのときサブ司会をやっていた古舘(伊知郎)さんと親しくなって。でも、テレビ朝日のアルバイトADというのは1年契約。その契約が終わったときに古舘さんを通して紹介してもらったのが『月刊プロレス』なんです。
――というと、古舘さんとはかなり親密だったんですか。
尾崎 メチャクチャ仲は良かったです。古舘さんに「手伝ってくれ」と言われて、テレビ朝日のアナウンス部で『東スポ』のプロレス記事をスクラップにまとめてたこともありましたし。
――当時の『月刊プロレス』編集長は杉山(頴男)さんですよね?
尾崎 そうですね。次長で変な奴がいましたけど(笑)。
――ハハハハハハ! 「変な奴」というとターザン山本さんですかね。
尾崎 あのときターザンとは2回も大喧嘩しましたけどね。怒ったターザンから「おまえはクビだああ!」と言われたんですけど、「あんたに雇われてるわけじゃない!」って怒鳴り返しました(笑)。
――その関係はのちのちまで続くわけですか(笑)。
尾崎 『月刊プロレス』時代はアルバイトとはいっても、試合レポートを書いたりして、ほぼ記者としてやってましたよ。『デラックスプロレス』の編集もやっていたし、『プロレスアルバム』でハルク・ホーガンやタイガーマスクの特集もサブでやってたし。船木や鈴木がプロレスラーとして影も形もない頃からこの業界には関わってるんですよね。それでそのときに一番仲が良かったのは高田延彦。
――あ、そうだったんですか。
尾崎 高田延彦とはそこから個人的な付き合いが始まって。結局『月刊プロレス』には2年くらい在籍してたのかな。古舘さんとの約束でやめることになったんですよ。
――古舘さんの約束というと?
尾崎 古舘さんとは「俺がテレビ朝日から独立するときはおまえも一緒に来い」という約束をしてて。それで古舘プロジェクトが立ち上がったときにボクも参加して。古舘さんのマネージャーとして働くことになるんです。
――古舘さんは売れっ子でしたから相当忙しかったんじゃないですか。
尾崎 休みが1日もないくらいメチャクチャ忙しかったですよ。古舘さんがベッドに入ってから自分の家に帰って、古舘さんが起きる前に迎えに行って。
――その頃も古舘さんは『ワールドプロレスリング』の実況をやられていたんですか?
尾崎 やってましたね。地方会場で実況の仕事があるときは、会場に入る前に市役所や観光案内所に寄ってそこの土地柄を調べて、そのメモを古舘さんに渡すんです。
――そのメモが実況の前口上なんかに使われたりするんですね。
尾崎 そうそう(笑)。だから新日本の会場にはけっこう出入りしてましたよ。あれは蔵前国技館だったかなあ。「ブルーザー・ブロディが出る、出ない」で大騒ぎになって。控室にボクと古舘さんがふたりでいたら、山本小鉄さんが「大変だ。ブロディが試合をやらないかもしれない!」って慌ててやってきたことはおぼえてますね。
――ホテルの部屋に立てこもったブロディを小鉄さんが「試合に出ないから俺はここで切腹する!」と逆に脅して出場させた事件ですね。
尾崎 ボクも小鉄さんには凄くお世話になってるし、船木の引退興行のときに花束贈呈で来場してくださったのは、そういったつながりもあったんですよね。だからボクはパンクラスで急にプロモーターになったけど、もともとこの業界にはいろいろとつながりはあったんですよ。
――そこから船木さんたちはどうやって知り合うんですか?
尾崎 ボクが古舘さんの事務所をやめて、ある芸能プロダクションのマネージャーをやってるときに、高田のテーマ曲を作ることになったんです。『クロスファイヤー』っていうタイトル。
――そんなことまでやってたんですか(笑)。
尾崎 作曲はボクの義理の兄貴。パンクラスのテーマ曲も作った男なんですけど。
――あの名曲『Hybrid Conscious』を!
尾崎 あれはボクが兄貴を騙して作ってもらったんですよ。旗揚げ前でお金がなかったのに(笑)。『クロスファイヤー』のB面は高田ちゃんが歌が上手いから歌ってもらったんですけど。
――高田さんの歌い口調って完全にハウンドドッグなんですよね(笑)。
尾崎 『クロスファイヤー』のときもそんな感じでしたよ(笑)。そのときに彼の紹介で新生UWFの神(伸二)社長に会ったんです。そういった縁からボクがUWFのレーザーディスクを作ることになったりして。レーザーディスクの中でボクが選手と語り合ったりもしてるんですよ。
――では、Uの選手とは顔見知りだし、因縁の前田(日明)さんとも当時は仲が良かったんですか?(笑)。
尾崎 ……当時はね(苦笑)。
尾崎 うーん、これは話がかなり長くなるし、全部は書けないですよね(苦笑)。だって、ボクも渦中にいましたから。
尾崎 話せる範囲で言うと、渋谷・道玄坂で雀荘をやってる人がいて、その方はのちにリングスのフロントに入るんですけど。UWFの解散宣言が出る前にその雀荘に選手をみんな集めて「一緒にまとまってやっていこう」という話し合いがあったんです。その場にはボクもいたんですけど、なぜかいたかというと、各選手と仲の良かった数少ない男だったし、UWFをWOWOWで放映するって話を持っていったのは僕絡みだった。
――新生UWF幻のWOWOW中継は尾崎さん仕事だったんですね。
尾崎 あのときはみんながバラバラになりそうだったけど、「WOWOWから5億出るから!」という話でなんとか引き止めて。
――5億!
尾崎 5億ですよ、5億。選手全員が(第三次UWFを)やるんだったら。あの話し合いには藤原(喜明)さんと中野(龍夫)選手はいなかったのかな。そういえば、その話し合いの前に前田氏に呼ばれるんですよ。「尾崎さん、フロントとして入ってくれ」っていうことで。
――はー! いまとなってはなんだか面白い(笑)。
尾崎 そのときは断ったんですけどね。そんな気はまったくなかったから「選手の相談には乗るけど、あくまでボクは映像や出版関係の仕事がやりたいだけだから」と。
尾崎 UWFや前田氏にはずいぶんと力を貸したつもりだったんですけどね(苦笑)。
――しかし、そんな雀荘会談があったのに、前田邸の選手ミーティングで「解散宣言」が飛び出したのは驚いたんじゃないですか?
尾崎 そりゃあ驚きましたよ。雀荘でみんなで「よかったね」って喜んでいたばっかりだから。
――あの選手ミーティングで前田さんが選手たちに「俺を信用できるか?とたずねたら、安生(洋二)さんと宮戸(優光)さんのふたりが「できない」と答えたことが解散宣言につながったという話になってますよね。
尾崎 という話にはなってるけど。ボクが聞いてる話とは違うんですよね。「信用しますけど。でも……」と。「でも」がついたんですね。ふたりの真意はわかりませんけど。あの夜にまず鈴木から電話があったんです。そのあとに船木。鈴木は泣いてたんですよね。「前田さんが解散と言いました……」と。こっちとしても寝耳に水だから「何それ……?」と驚いて前田氏に電話をした んですよ。「なんでそんなことを言ったんですか。みんなバラバラになっちゃいますよ」と。
――はー!!
尾崎 前田氏は「選手に冷や水をぶっかけっただけだ」って。本気で解散するつもりはなくて、要は冷却期間を置こうとしたんでしょう。でも、解散となったら藤原さんも自分ひとりでやろうとするはずだし。……いいのかな、こんなことしゃべっちゃって?
――大丈夫です! たぶん(笑)。もう20年以上前のことですし。
尾崎 まあ、事実だから、誰かにとやかく言われることもないんだけど。
尾崎 いやいや、藤原さんはあの場に来るのが面倒くさかっただけでしょう(笑)。そういう場でしゃしゃり出てしゃべる人ではなかっただけで。
――前田さんとの電話に話を戻すと、前田さんはどんな反応だったんですか?
尾崎 ボクがそう言ったら慌ててましたね。「どうしたらいい?」って聞くから「船木とか若い選手を抑えたほうがいいですよ」と。あのとき前田氏が船木のマンションの前で船木の帰りをずっと待ってたという有名な話があるじゃないですか。それはボクが前田氏にそう言ったからですよ。
――でも、船木さんには帰ってこなかったという。
尾崎 それで結果的に3つに分かれて……いや、ボク的には4つだな。神さんとも仲が良かったわけだから。高田ちゃんや前田氏、みんなと仲は良かったし、どこにもいい顔をするわけにはいかない。どうしようもなかったですね。
――尾崎さんは3つに分裂すると思ってました?
尾崎 思わなかったです。
――どうなると思ってました?
尾崎 うーん、「うまくはいかないだろうな……」と思ってましたけど。まずリングでやりたいことがみんなバラバラだったから。
――そのカラーの違いは分裂後にハッキリしましたね。でも、こないだ船木さんにインタビューしたら「そこまで格闘技をやりたいわけじゃなかった」とは言ってましたけど。
尾崎 うーん、それはいまになって言えることじゃないかなあ。船木が藤原組に行ったのは、パンクラスのスタイルができるという理由だったはずだし。だってUWF時代にも前田氏に「UWFを格闘技にしたい」とお願いしたら「5年待ってくれ」と言われた話があったでしょ。
――そこにはいろんな思惑があったのかもしれませんね。高田さんとの関係はどうなったんですか?
尾崎 いまでもたま〜に話はしますよ。でも、電話に出てくれなかった時期が2年間くらいあったのかな。
――理由は思い当たりますか?
尾崎 おそらくだけど、ボクが当時Uインター所属だった田村潔司をパンクラスに引き抜こうとしてるということかなあ。田村選手が自分の本で「パンクラスに誘われた」とか書いてたんですけど。それじゃないかなあ、と。
――パンクラスは誘ってないんですよね?
尾崎 誘ってないです。でも、田村選手は鈴木を通して「話をしたいことがあるから会ってほしい」という連絡があったんです。それで向ヶ丘遊園のファミレスで待ち合わせをして。田村選手はボクに会うなり立ち上がって「ボクを引き抜いてくださいっ!!」って言うんですよ(笑)。
――ハハハハハハ!
尾崎 「ちょっと待ってくれ。俺は高田との関係もあるから引き抜きなんてできないよ」って断ったんですけど。その3日後くらいにも、ある関係者から「尾崎さん、田村のギャラ月●●円でいいからパンクラスで契約しれくれないか」という連絡があったんですけどね。結局その後に彼はリングスに行くんですけど。
――でも、高田さんはパンクラスが田村さんを引き抜こうとしたと思ったんですかね。
尾崎 そこは本人に聞いてみないとわからないですけどね。でも、いまは普通に連絡は取れるようになりましたから、誤解は取れたでしょ。私の本にも引き抜きは事実誤認だと書いたし(笑)。
――話をパンクラスで設立前に戻すと、船木さんとは藤原組時代も付き合いはあったんですか?
尾崎 藤原組の映像関係の仕事をちょっとやってたんですよね。そういったこともあって、船木たちが藤原組を出たときに「パンクラスの社長をやってくれ」とお願いされたんですよ。
――尾崎さんは当初は社長就任を断ったんですよね?
尾崎 そうです。ボクは芸能・番組制作のプロダクションを作ったばっかりでお金もなかったですし。手伝えることは手伝おうと思ったけど。だから藤原組の寮を出て住むところがない國奥(麒樹真)、柳澤(龍志)、稲垣(勝臣)たちに、プロダクションで借りてた乃木坂のマンションを貸してあげたりして。そこは住居用じゃなくて事務所用のビルなんですよね。そんなところで彼らがちゃんこを作るから、その匂いがビルにこもちゃって騒ぎになっちゃいましたね(笑)。
――やる気がなかったのに社長を引き受けた理由はなんですか?
尾崎 脅された(笑)。
――ハハハハハハ!
尾崎 ホントにやるつもりはなかったんだけど。船木たちが「どれくらいお金が必要ですか?」と聞くから「3000万円くらいは必要なんじゃないの」と言ったんです。そうしたらみんなでその大金を集めてきたんですよ。
――そこまでされて断りきれなくなってきたんですね。
尾崎 鈴木は「尾崎さんは俺たちを見捨てるんですか?」というセリフまで吐きましたからね(笑)。「そこまで言うか」と思って、一緒にプロダクションを立ち上げた6人がひとりでも反対したらやらないという条件を鈴木に出したんです。そうして6人全員をひとりひとり呼び出して聞いたら全員が「やるべきです!協力しますよ!」と。
――尾崎さんがパンクラスをやりたくなかった理由はなんですか?
尾崎 やりたくないというか、その当時、自分のやりたい仕事はプロモーターではなく映像制作、そしてマネージメントでしたから。
――嫌なんじゃなくて本当にやりたいことがあったわけですね。
尾崎 そうそう。それで、とりあえず「やる」とは言ったけど、数年のあいだにボクの代わりを探して身を引くというのが考えだったんです。それに興行なんかやったことないから最初は右も左もわからないわけですよ。チケットをどこで売ればいいのかもわからない(笑)。
――最初は道場もなかったわけですよね。
尾崎 道場向けのいい物件があっても、「プロレスの道場で使う」と聞くと断られるんですよ。当時は「総合格闘技」なんて言葉はなかったし、選手はプロレスラーって名乗ってましたから。
――旗揚げ戦は最初からNKホールでやろうとしてたんですか?
尾崎 NKホールしか空いてなかったんです。ある程度の大きさの箱で日曜祭日で借りれるところがね。5月に記者会見をやって旗揚げが9月21日。そのあいだにやったことといえば、東京FMホールの有料公開スパーとトークショーくらいですよ(笑)。
――船木さんたちから、パンクラスのコンセプトは聞いてたんですか?
尾崎 聞いてはいても、ホントに格闘技をやるとは思ってなかったんですね。いずれはやるにしても、旗揚げ戦ですぐにやるとは思ってなかった。
――社長もビックリという。
尾崎 ボクはリング上のことは「一切口を出さない」と言ってたんですけど。ボクはボクで新しいことをやろうとしてたんです。たとえば、ほとんどの仕事は業界外の人間にやってもらおうとしたりね。デザイナーやコピーライターの方には何人か会ったんですけど、「プロレス好きですか?」と聞いて「あんまり……」という人にあえてお願いしたんですよ(笑)。従来とは違う色をパンクラスでは出したくて。
――デザインもコピーもパンクラスは新しかったですよね。
尾崎 画期的だったと思いますよ。「ハイブリッドレスリング」という言葉もそのコピーライターが作ったし。カメラマンもプロレスを撮ったことない方に頼んで。団体ロゴとコピーに関しては請求された金額は300万円。
――300万円!
尾崎 そりゃそうですよ。会社のロゴだし、一流の方に頼んだんだから。300万円でも安いかもしれないです。
――でも、300万円を払ったかいはありましたね。
尾崎 いや、それが払ってないんです(笑)。旗揚げに用意したお金が3000万だから、そのうち1割も払えないじゃないですか。パンフレットなどの仕事をレギュラーでやってもらうことで破格の金額にしてもらったんですけど(笑)。
――旗揚げ戦のチケットは売れました?
尾崎 売れました。チケットの値段はボクからしても「高いかな」と思ったんですけど、実券で7〜8割は売れたはずですね。あそこは6〜7000人は入りましたから、けっこうな売上になりましたよね。全部で5試合しか組んでいないのに。
――試合タイムは全試合で13分ちょっとで。
尾崎 いまでもおぼえているのは大会が終わって会場を片付けているときに、あのターザン山本が近寄ってきて「おまえ、何をやったのかわかってるのか!?(怒)」って絡んできたんですよ……。
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