相撲、レスリング、柔道、空手……あらゆる格闘競技をバックホーンに持つ大男たちがプロレスを稼業としていたのは今や昔。かつてはその出自を明かすことがタブーとされていた「学生プロレス」からも各団体のトップレスラーたちを輩出している。そんな「学生プロレス」の実態を探る興行シリーズに今回登場するのはDDTの
HARASHIMA選手。格闘スタイルの『ハードヒット』でも部類の強さを発揮するHARASHIMA選手のプロレスラーぶりは異端な学プロ生活にあったのだ。(聞き手/橋本宗洋)
【学生プロレスシリーズ】
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“中条ピロシキ”橋本吉史プロデューサーの「学生プロレスとラジオ」――HARASHIMAさんが在籍していた
『SWSガクセイプロレス』は帝京大学を中心とした学生プロレス団体なんですよね。
HARASHIMA(以下、HARA) そうですね。SWSは三多摩プロレス連盟の略で。多摩地域を中心とした学生プロレス団体です。
――もともと大学では学生プロレスをやりたかったんですか?
HARA はい。学生プロレスの存在は知っていたので、大学選びの選択肢のひとつには入ってました。プロレスは好きだったし、あと強さに対する探求もあって。
――それで柔道や空手じゃなく学生プロレスを選んだのは?
HARA なんて言うんですかねぇ、強さを求める究極のものがプロレスなんじゃないかなと思ってて。プロレスには柔道有段者もいれば、レスリングで全国大会に出たような方もいるわけですし。
――プロレス研究会も団体によってカラーが違うと思うんですけど、SWSはどんな雰囲気だったんですか?
HARA ボクらが入ったときはストロングスタイル、アメプロ、コミックマッチとバランスよくやってましたね。
――ファイトスタイルとかキャラクターは自分で決めるかたちでした?
HARA そうですね。とくに先輩に強要されるわけでもなかったですし。ボクは格闘技系が好きだったのでそういうスタイルで。デビュー戦が異種格闘技戦だったんですよ。
――いきなり異種格闘技戦!(笑)。
HARA 3年生で100キロくらいある先輩がいたんですけど、その人が柔道着を着たらビターゼ・タリエルにそっくりだったので「アマリニモ・タリエル」という名前でボクと異種格闘技戦をやりましたね(笑)。
――さすが学プロのリングネームですね(笑)。HARASHIMAさんの最初の学プロネームは「阿修羅・原島」だったと思うんですけど、学プロ新人にありがちなシモネタ系ではなかったんですね。
HARA ……これはあまり言いたくなかったですけど。ご存知のように新入生のリングネームって先輩につけられるんですよ。いまだに意味がわからないんですけど、最初は「島原の乱交」というリングネームをつけられて(笑)。
――ハハハハハ! 「原島→島原」で。かなり強引にシモにもっていってますね(笑)。
HARA それが本当にイヤでイヤで。デビュー戦から秋の学祭まで時間があったので「阿修羅・原島」に改名をお願いして変えました(笑)。
――HARASHIMAさんも学プロの洗礼を受けていたんですねぇ。
HARA やっぱり新入生は入ったばかりだから技術がないですし、出オチというか、名前で笑わせるくらいしか見せ場がないんですよね。そのためのシモネタリングネームなんです。学生プロレスって場内実況もあるから名前を連呼してるだけで面白いっていう。
――HARASHIMAさんはそのあとにもう1回名前を変えてるんですよね。
HARA キャラクターを変えて「はやぶちゃ」に。ちょうどハヤブサさんのマスクが4色2万円で販売されたんですよ。で、マスクマンをやりたくなってハヤブサさんみたいなキャラクターをやろうということで、コスチュームを作って白い足袋も買って。
――その頃から卒業したらプロレス入りしようと考えていたんですか?
HARA 漠然とは考えていたんですけど、「自分ができるものじゃない」と思ってて。当時はインディだと食べていけないだろうし、かといって学プロから大きな団体へ入ることは難しいだろうなと思ってましたし。
――その頃はまだ学プロ出身と公表してるレスラーはいなかったですか。
HARA 真壁(刀義)さんはボクが1年のときの4年生でSWS出身なんですけど、新日本に入っても学プロ出身を隠していたんですよね。メジャーのレスラーからすると「なんだおまえら」って感じで学プロは認められていなかった時代で。
――大学時代の真壁さんはどんな存在でした?
HARA 僕らからすれば「真壁さんは新日本プロレスに入って当然」というか。ほかの誰よりも練習してましたし、誰よりもプロレスができてましたし。身体も凄かったですからね。
――学プロの中でズバ抜けていたんですね。
HARA 考え方もしっかりしてましたし。そんな真壁さんでも新日本に入ったあと「プロでは全然通用しない。受け身からして違う」とは言ってましたね。先輩のしごきも凄かったんでしょうけど。
――そこは何が大きく違うんですかね。技術的なことをいえば、プロから学プロに伝わってたりするケースもあるじゃないですか。
HARA そこは直接じゃなくて、誰かを介して伝わってきているから、そのあいだで変わってしまうんでしょうし。真壁さんがよく言っていたのは「プロは受け身の音からして違う」と。そこは体重の違いもあると思うんですけどね。
――去年のDDT両国大会のHARASHIMA選手の煽りVで、真壁さんが手紙を読む場面があったじゃないですか。「延々とスクワットやったよな」って。学プロ時代からプロのような練習をされてたんだなって思って印象に残ってるんですよ。
HARA 真壁さんとよくやってましたねぇ。基本的に練習場に集まってみんなで練習するんですよ。受け身があって、技の練習をして、そのあとに試合形式の練習をやったりして。で、真壁さんは新日本の入門テストを受けるために練習場が開く前から踊り場とかで基礎体を延々とやってたんです。
――徹底してたんですね。
HARA 真壁さんがカッコいいのは、ボクも練習が好きだったんで早めに練習場に行ってたんですよ。そうしたらまだ練習場は空いてなくて、廊下から息遣いが聞こえてきて、見たら真壁さんがひとりで腹筋をやってて「……見られちまったな(苦笑)」って。
――カッコいいですねえ!
HARA それでも真壁さんは一度は新日本のテストを落ちてるんですよね。やっぱアマレスのエリートが入ってくるような団体ですから。真壁さんは高校時代は柔道をやってましたけど、学生プロレスという肩書きはなかなか難しかったんじゃないですかね。
――HARASHIMAさんが真壁さんの自主練に付き合うようになったのはなぜですか?
HARA ジッとしてられないというか、やっぱり練習大好きなんで。いまならプロテインやアミノ酸を摂るんですけど、当時は水だけ飲んで練習してたんでいくら練習してもガリガリでしたけど(笑)。あれは若さですよねぇ。
――プロへの思いはなくとも、うまくなったり強くなったりするのが大好きというか。
HARA そうなんですね。
――HARASHIMAさんの試合って寝技やレスリングの動きを凄く丁寧にしてますよね。柔術、総合の技が入ってたり。フックガードからのスイープとか、下から腕をたぐってバックを取ったりとか。
HARA それは学生時代からそういう練習をしてましたしね。やっぱり強さへの憧れがあって、学プロに入ったのは「そういう練習をやってるから」と言われたこともありましたから。総合格闘技って当時は一般的ではなくて、総合格闘技の道場がポツポツでき始めた時代なんです。だから自分たちで勉強しようとスパーリングをやってましたね。
――それはプロレス道場でいうところの“極めっこ”というか。
HARA あ、そうです。まさに“極めっこ”です。自由時間のときにひたすらやってました。
――どんな学プロなんですか(笑)。
HARA 時間さえあればやってましたよね。いまみたいに情報が入らない時代だったんで、『格闘技通信』の技解説連続写真を記憶して練習したり。当時『リングの魂』のエンディングでUFCの試合が流れてたりするのを頭で記憶して試してましたね。三角絞めとか。
――『リン魂』のエンディングに目を凝らして(笑)。
HARA それで自分が4年生になったときに、慧舟會に通ってる先輩がたまに来て教えてくれて。その先輩の格闘技サークルに参加したり。そういうサークルが最初からあったら、学プロじゃなくてそっちに行ってたかもしれないですね。
――もちろん強さへの憧れはあったんでしょうけど、そういう技術って学プロを見ているお客さんには伝わらなかったりしますよね。
HARA ボクの考えるプロレスラー像って「大きい」か、「強いか」だったんですよ。ボクは身体が細かったですけど、練習すれば強くなれるのでそっちにおもいきり振ったんだと思います。……僕、メチャクチャ強かったですよ。自分で言うのもなんですけど(笑)。
――さすがです(笑)。そういうスタンスって、学プロでは異質な存在じゃなかったんですか?
HARA 異質……ですね。でも、ウチのサークルにはそういうタイプが何人かいましたけど。ヤバかったのは九州の学プロですね。
――と言いますと?
HARA 九州は“プロレス部”なんですよ。同好会とこ愛好会じゃなくて部活なんです。だからコーチがいたり、当時だとアメプロが拒絶されてるんです。FMWでデビューした池田くん(池田誠志)という選手がアメプロスタイルをやっていて上層部と合わなかったらしいんですよ。
――ガチガチのストロングスタイル志向というか。
HARA そうです。僕らが九州遠征したときに九州学プロのOBのチャンピオンと現役チャンピオンの試合があって。OBが顔面蹴りあげたら現役選手が失神してしまって。
――えっ!?
HARA そこからOBが腕ひしぎをかけたんですけど、失神してるからタップでもできないじゃないですか。タオル投入されて試合が終わったんですけど、肘を脱臼することになって。
――ガチガチすぎますよそれ! そういう試合が向こうではあたりまえだったんですかね……。
HARA そのとき九州の学プロにいたのが旭志織と炭谷ジェット信介で。旭志織のあとの時代からは変わっていったみたいですけど。当時の練習が基礎体とスパーばっかりだったという話を聞きましたね。
――まさに“昭和・新日本”的なムードが学プロにあったんですねぇ。
HARA それで真壁さんが4年のときに、ジェ・ニンジャ、いまの筑前りょう太選手と対抗戦やったんですけど。パワーボムが5~6発出た試合のフィニッシュが真壁さんのヒールホールドですからね……。
――何をやっても終わらないから強引にタップさせるしかなかったという。ホントの対抗戦じゃないですか!
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