水樹奈々さんの「ビューティフル」帝国劇場、前から4列目のど真ん中で観た。
伊礼彼方くんが水樹奈々さんの相手役をすると言う、
何が何でも観に行かなければ、と勇んで出かけた。
物語は「キャロル・キング」の個人ヒストリー、彼女が作曲し、歌った数々の名曲が歌われる。聞いたことある楽曲や歌手やグループ名が、僕がラジオかじりついて聴いていた同じ時代に、それらが語られ歌われて生まれてくる場所ではこういうことが起こっていたんだな、ってこと、1960年に15歳だった僕が50年以上も経ってから追体験できるって、それだけでジーンとしてしまう。
だから物語には入りやすい、分かりやすい。
水樹奈々さんは素敵だった、かわいかったし、懸命に生きたクリエイターの姿が彼女の歌を通じて伝わってくる。
そこが伝わったので何も問題はない。
でも、僕には少し物足りなかったように感じられた。
そう考え始めたのは、水樹さんはもしかしたらお芝居の経験の少ないのかもしれない、なんで深く突っ込まないんだろう、って感じたときからだった。
歌手としての水樹さんはあの広大な西武ドームを興奮のるつぼにするエネルギーをたっぷり持っている。でもそれは内に秘められこのお芝居では外側には出てきていなかった。なんでだろう、たぶん彼女はそこを圧縮してこの舞台に臨んだのだと思った。出来るだけ自然な芝居を心掛け、自分が歌い手だと言うこと忘れて前提なしに一人の創造する人間の心を持とうとしたに違いない、エネルギー掛けてやればできたに違いないキャロル・キングの心の掘り下げは、しなかったか、してはいけないと思ったからなのではないだろうか。だから見慣れた水樹奈々さんの弾んだ姿や莫大なエネルギーの爆発はなかった。
物語はそのようには作られていなかったのだから、そこは彼女の責任ではないし、水樹さんはこの演技で正解なんだと思う。
問題は水樹さんでは全くなくて、脚本がキャロル・キングの心の奥底まで入らなかったことにあるだろう。夫とのすれ違いで起こる深刻な葛藤や時には訪れただろう狂気を掘り下げなかったのだろう、物事をゼロから作るアーティスト、しかも時代は急激に動いている。狂気の塊のボブ・ディランが出た時代、時代の最先端を走るクリエイターのぶつかり合いの物語としては分かりやすすぎる、もっと何かしらの激しい衝突があったに違いない、綺麗なストーリーに収められ、出た当時は心うずきカラダ突き上げられる色気たっぷりの音楽が、後世になってから聞いてみると耳障りの良い音楽となって、ちょっとは心ざわつくけど、うまく行った人生をそのメロディに載せて見せてくれる、これはこれでいいんだと思った。
だってこの作品、ブロードウェイの「オン」のミュージカルなんだから。多くの人に分かりやすい物語にして、人生にはそんなに深刻な悩みなんてない、前向きに生きていれば良いことがやってくる、悩みの表現は最低限のレベルに留めておくべきだ、それがブロードウェイという大衆娯楽の在り方なのだろう。
という感想はプロデューサーという職業の悲しいサガで、そんなのほっといて僕の個人の感想としては十分に楽しかった。なんていったって、あの水樹奈々さんが、にこっと笑ってくれて、ピアノ弾きながら僕の目の前数メートルでむかし口ずさんだ数々の歌を歌ってくれたんだから。こんなことめったにないからもう一度観に行きたい、チケット買えなかったら禁断のチケットキャンプでもいい、必ずもう一度観に行く。
伊礼くんの楽屋にお邪魔した。大勢の彼のお客さまが並んで待っている先頭で会って話し込んでしまった、後ろで待っていた方々に申し訳ないと思いながら、伊礼くんの前からのファンという連れの音楽大学3年生20歳の友松花穂さんとも仲良くお話して、彼って流石「無駄に男前」って言われたというか言った中の一人だけど、ニューヨークの音楽ビジネスの最先端走ってる芸術家って雰囲気が無性に似合う、チェックのシャツにジーパンという簡単なファッションもお似合いで、とかなんとか、そんなイケメンと並んでパチリ。