舞台「まいっちんぐ漫画道」を観た。
藤子・F・不二雄先生が登場するということを池袋の劇場でチラシで見つけ、サブタイトルに「藤子スタジオアシスタント日記より」と書かれていたので直感で観たいと思ったし、藤本弘先生が登場するのは確実で役者がどのように藤本先生を演じるのか、と思ったら何が何でも見ておかねばと思いとっても忙しい時期だったのだが池袋まで出かけた。
芝居は、そこそこ観れた。
演者に熱量があり、テンポは早く、シーンの移り変わり、ネタの投入頻度とか、飽きさせない工夫が詰まっていて、あれよあれよと目が楽しんでしまう。
藤本弘先生を演じた俳優さんのなりきり具合に感謝したい、藤本先生があたかもそこにいるかのように見え、久しぶりに藤本先生に会えてうれしさ感じてしまった。
安孫子素雄先生も然りで、見事な形態模写になっていた。松野マネージャーさんを演じた女優さんの、話し方から身のこなし方まで何から何までのそっくり具合にはさらにびっくりした、あまりにそっくりなのでちょっと怖くなった。
特に、まいっちんぐマチコ先生のモデルになった藤子スタジオのアシスタントの女性、とチラシに紹介された役の女優さんが素晴らしかった。別にプロポーションは素敵には少し距離があり、首から上も綺麗型の美女ではないのに、艶やかな美女に見えてしまうというマジックを見た、このなりきる鮮やかさと、表情豊かな演技に目くらましに出会ったかのように、目が快感感じて彼女を追いかけてしまう。
なので、芝居そのものには不満はない。
違和感を感じたのは、ドラえもんのアニメに関する諸々の関係者たちの描き方が、僕の存じ上げている藤本先生の気持ちとはかけ離れている、と言う点だ。先生はどんな方に対しても、いわゆる悪人扱いは絶対にしなかった、その相手の方が、例えアニメを終了させた張本人だったとしてもだ。そもそもテレビ局プロデューサー個人の思惑で、テレビアニメという関係者多数の利害が絡む番組が、そんな簡単な理由で終了とかありえない。終了が諸般の事情で決まった場合でも、アニメ&放送関係者の総意を代表して、放送局とアニメ制作者と放送関係者が連れ立って、どれだけ原作者及び原作漫画に対して傷がつかないように配慮しながら終了のお願いを恐る恐る伝えに伺うかというのが礼儀だし実際にはそのようになっていた。
それをこの舞台では、あたかもスポーンサーもテレビ局人間も、ステロタイプなふざけた人間としてしか描かれていない。そんなことは、藤本先生の基本的なお考えに全く反している。先生は、いつも、自分の漫画をアニメにしてくれて、ありがとうとおっしゃっていた、感謝されていることが、僕ら関係者には痛いほど伝わってきて、この方のためなら頑張ろう、といつも思っていた。
もっと言えば、この舞台ではこの種の人たちが登場する場面では、この人たちの職業を馬鹿にした表現で笑いを取ろうとしている、他人を馬鹿にして笑いを取るなんてテレビバラエティ番組のノリは藤本先生は絶対にされなかったし、自分が主役の芝居の中でそのような表現がされてれいることを知ったら、それは許されない、とお叱りになったことは間違いない。
それを、この舞台では、放送に関係する人たちを悪人に類するただの間抜けな人たちとして描かれていた。百歩譲ってそのように先生と先生の描かれた漫画に尊敬の念が無くただの仕事して軽く考えて参加しているように見えてしまう人が関係者にいたことを受け入れたとしても、アニメ関係者、放送関係者たちをこの舞台でのようにおふざけの場面にしつらえ、馬鹿にした描き方は、藤本先生の根本的な思想というか表現者としての基本的な考え方には全く反している、ことははっきり言っておきたい。
アニメ&放送関係者のエピソードとして、視聴率が下がったのはその時代の空気に似合わないから、のび太を改造してもっと元気な活発な男の子に性格を変更しよう、という話が出ていて、これは実話です。この舞台ではその話の落着点が示されないまま、単に視聴率が下がったから放送が中止になった、という話になっていた。どの時点での話か定かではないが、僕の記憶とは全く違って番組は中止にはならなかった。
その時、先生は、このようなのび太の性格の変更にはきっぱりと明確に反対された。その時の藤本先生の話に、アニメ&放送関係者は改めて藤本先生の子供を見る目の温かさに触れ、これからも番組は守らなければならないと思いを新たにした、と記憶している。
先生がおっしゃったことは、のび太は弱い子でいいのです、子供はみんな誰かを頼りにしたいんです、出来ないことがあると誰かに助けを求めたいんです、だからドラえもんみたいな友達が欲しいんです、この考え方を聞いて、のび太の性格の変更を言い出した人々は、己の浅はかさに気が付き反省し、もっとこの番組を大事にしようと、再度奮い立ったのです。
なんで、そんな藤本先生のお考えの根本にある人間に対するやさしさの目線と、舞台上に繰り広げられたドタバタおふざけの部分の描写が、どれだけ乖離しているかにこの舞台作る人々は気が付かなかったのだろう、劇場を出るときの気持ちはとっても沈んでいた。
この芝居創った人たちの熱意は十分に感じたし、芝居はたくさんの稽古に裏付けられたであろうキチンとした芝居だった、でもこんなの許されない、と思った。
それを伝える元気すらなくなって、僕は黙って劇場を後にした。