それに、久鬼(くき)が反応した。
 いや、反応したのは、久鬼ではなく、久鬼の内部にいる獣であったのかもしれない。
 跳んだ。
 久鬼の身体が、宙へ跳んだのだ。
 幾つもある脚の筋力が使用されたのか、異形の翼が利用されたのか、その両方であったのか。
 翼はただ一度、
 ばさり、
 と、打ち振られた。
 そして、久鬼は、走り去ろうとする鹿の背に、後ろから飛び乗っていたのである。
 幾つもの足の鉤爪が、鹿の背の肉を、背骨ごと掴んでいた。
 その時には、もう、幾つもの頭部が、顎が、首や、頭や、背の肉に牙を立てていたのである。
 ぴいいいいいっ!
 鹿が、悲鳴をあげた。
 だが、すぐにその声は止んでいた。
 喉を噛まれ、気管が締められ、塞がって、声を発することができなくなっていたのである。
 ぞぶり、
 ごつん、
 ぬちゃ、
 ごぶり、
 獣の牙が、肉を噛み、骨を噛み折って、血を啜りあげるおぞましい音が響く。
 びりっ、
 と、音をたてて、肉と皮がちぎれる。
 久鬼の顔が変貌していた。
 双眸が、吊りあがっていた。
 口の両端が、裂けたようになって、耳の方へ持ちあがっている。
 さっきまでそこにいた久鬼が、今はいない。
 久鬼が、生きた鹿を食べている。
 食べるそばから、それを消化し、吸収して、また、肉が増えはじめている。
 めりっ、
 めりっ、
 と、久鬼の額が音をたてて割れ、そこから、ねじくれ、血をからみつかせた二本の角が生えはじめた。
 左の角は、どうやら牛の角らしい。
 右の角は、歪(いびつ)な鹿の角だ。
 その二本の角が、みりみりと成長してゆく。
 行ってしまう。
 もどりかけていた久鬼が、また、むこうへ行ってしまう。
「久鬼!」
 九十九(つくも)は、久鬼を呼びもどそうとした。
 久鬼の吊りあがった双眸が動いて、九十九を見た。
 さっきとは、その眸の放つ光が別ものであった。
 襲われる!?
 九十九は、そう思った。
 逃げようとして、逃げられる距離ではなかった。
 背を向けて、数歩も行かないうちに、背後から襲われ、今の鹿と同じように食われてしまうであろう。
 ならば――
 九十九は、瞬時に判断していた。
 久鬼が動き出す前に――
 九十九は、深く呼吸した。
 急いでも、あわてない。
 ひとつ深く吸って、ひとつ、深く吐く。
 ふたつ目を、さらに深く吸って――
 ここで、久鬼が、首を傾けた。
 ぎいい……
 久鬼が哭(な)いた。
 九十九は、ふた呼吸で気を全身に溜めた。
 足りない。
 さらに溜める。
 全身以上、身体の外側まで。
 肉が、身体が、倍以上に膨れあがった感じだ。
 温度をあげる。
 粘度をあげる。
 圧力をあげる。
 ひとつずつの細胞の全てが、ぱんぱんに張りつめて、ちぎれそうになる。
 ぶちぶちと細胞のはじけるその音が、こめかみあたりで聴こえてきそうだった。




初出 「一冊の本 2013年10月号」朝日新聞出版発行

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