「おれを、救う?」
 久鬼が、つぶやく。
 久鬼の眸に、さらに光が点る。
「ああ……」
 久鬼は、溜め息のような呼気を吐いた。
 一度、二度、眸を閉じたり開いたりした。
「夢を、見ていたようだ……」
 視線を、周囲にめぐらせた。
「長い、夢だ……」
 腕を持ちあげる。
 その腕を眺める。
 左右の手を。
 そして、指を。
 指先を。
 その眸が、自分の身体に移ってゆく。
「夢じゃ、なかったのか……」
 溜め息とともにつぶやく。
「それとも、まだ、夢を見ているのか……」
 月光の中に、久鬼は、白い腕を差し伸ばし、そして、
「ずいぶん、楽しい夢だったような気がする……」
 謡
(うた)うように言った。
「悪夢であったような気もするが、それはそれで、悦びに満ちたようなものであったような気もするのですよ、九十九……」
 久鬼の視線が、九十九にもどった。
「何故、救うのです?」
 久鬼が言った。
「何故、このぼくを、救わねばならないのです……」
 ゆっくりと、久鬼の口調が、かつての久鬼のそれにもどってゆく。
 大量の、どろどろの肉塊と毒素を吐き出して、すでに、獣の身体は、当初の半分くらいにもどっている。
 久鬼の眸の中に、光の量が増えてゆく。
「こんなに楽で、こんなに楽しいのに……」
 久鬼は言った。
 ぶるり、
 と、久鬼が、獣が、その身を震わせた。
 血肉の飛沫
(しぶき)が、周囲の月光の中へ散った。
 ゆるり、
 ゆるり、
 と、獣が、久鬼の上体を生やしたまま、自らが作った肉
(にくでい)の中から歩み出てきた。
 それは、牛に似ていた。
 大きさも、その姿も。
 しかし、むろん、それは牛ではない。
 濃い獣毛が生えていた。
 まともに地についている脚は、六本あった。
 幾つもの腕や、頭部が生えているのは同じであったが、今、その主体は、その中心に生えている久鬼にあるのは、明白であった。
 そして、月光の中に広げられた、巨大な蝙
(こうもり)の翼。
 生物としての、肉体のバランスが、それなりにとれてきつつあるようであった。
 それでも、まだ、凶
(まがまが)しい歪(いび)つな感があるのは否めないが、それは、美しかった。
 月光の中で、久鬼は、両手の指を髪の中に差し込んで、それを掻きあげた。
 ざわっ、
 と、その髪の毛が、立ちあがる。
 久鬼の赤い唇に、笑みが点る。
 しかし、その眸には、たまらなく哀切な光が宿っていた。
「さっき、ぼくを、救いたいと言いましたか、九十九――」
 久鬼は、つぶやいた。
「どうやって、救うのです。檻に閉じ込めて、見せ物にしますか。どこかの施設に幽閉して、実験材料にしますか……」
 また、一歩、獣の脚が、近づく。
「おもしろいですね。さあ、救ってもらいましょうか……」
 言ったあと、久鬼の唇が、また微笑した。
「でも、その前に、答えてもらいましょうか。そこに、あなた以外の、もうひとりの人間のいるわけを……」
 久鬼の視線が動いたのは、吐
(げつ)が身を隠している木立の方角であった。
 ゆっくりと、吐月が、木立の中から姿を現わした。
 九十九の横に並んで立ち、
「吐月という者だ……」
 そう言った。
「吐月?」
「君も知っているだろう、真壁雲斎の友人だよ」
 吐月は言った。
「ああ……」
 久鬼は囁くように言った。
「なんとなつかしい名前を耳にするんでしょう。真壁雲斎……夢のようです……」
 久鬼にとって、それは、遥か昔の神話上の名として響いたようであった。
 雲斎――
 円空山――
 円空拳――
 久鬼が、その顔を、月へ向けた。
 その時――
 不幸であったのは、そこへ、一頭の鹿が出現したことであった。
 雌の鹿だ。
 野生の動物としては、考えられぬほど無防備に、横手の木立の間から、その鹿は姿を現わしたのであった。
 人への警戒心が薄れていたのか、もともと警戒心のない個体であったのか。
 風上からやってきたことを考えに入れても、その鹿は、無防備であった。
 現われて、そして、数歩動いてから、その鹿は、その獣に気づいたのであった。
 鹿は、逃げようとした。
 しかし、その逃げる方向を誤った。
 後方へ逃げるか、せめて横へ逃げればよかったのに、なんと、その鹿は、その獣の前を駆け抜けようとしたのである。


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画/晴十ナツメグ



初出 「一冊の本 2013年9月号」朝日新聞出版発行

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