九十九は、その獣の正面に立っていた。
 無数の首が持ちあがり、無数の眼が九十九を見ていた。
 しかし、同時に、同じくらいの無数の首と口が、
 げええ、
 がああ、
 血肉の塊
(かたま)りや、何かわからないどろどろとしたものを吐き出し続けていた。
 幾つかの口が、体内に溜っている毒素を、赤黒い鶉
(うずら)の卵ほどの大きさのものにして、吐き出しているのも、これまでと同じだ。
 だが、それらは、この獣の無意識がやっていることのように見えた。
 たとえば、それは、心臓の脈動のようなものだ。
 たとえば、それは、肺の呼吸のようなものだ。
 あるいはそれは、歩行のようなものだ。
 心は何か別のことを考えていても、それらの臓器や脚は、自分の動きを続けることができる。
 しかし、その獣の本体、その意識は、今、はっきりと九十九に向けられている。
「久鬼、おれだ。九十九だ」
 九十九は言った。
 と――
 その獣の中心あたり。
 獣毛に覆われた部分に、何かが盛りあがった。
 そこから、せりあがってくるものがあった。
 ゆっくりと、月光の中へ――
 それは、人の身体であった。
 水中から、人が、だんだんと頭を持ちあげてくるように、人が、上体をゆっくりと起こしてくるように、その姿が見えてくる。
 頭部。
 顔。
 肩。
 胸。
 腕。
 腹。
 裸体である。
 白い肌をした、男の上体の裸体。
 知っている。
 他人ではない。
 それは、久鬼であった。
 久鬼の身体が、今、獣の体内から生
(は)えてきたのである。
 久鬼は、眸を閉じていた。
 この間にも、獣は、肉を吐き出し続け、毒素を吐き出し続けている。
 その獣の吐き出したものが、獣の周囲に溜ってゆく。
 もの凄い臭いだ。
 血肉を吐き出せば、吐き出したその分だけ、獣の身体は縮んでゆくようであった。
 毒素を吐き出せば、その分だけ、獣は元気になってゆくようであった。
 げえええ、
 があああ、
 ち、
 チ、
 ち、
 くるるるるるる……
 るるるるるるる……
 獣が、低く喉を鳴らしている。
 久鬼の上体が、その獣の中心に、真っ直ぐに立った。
 体液にまみれて濡れた髪が、白い額に張りついていた。
 ゆっくりと、その眸
(め)が開かれてゆく。
 潤いのある、美しい黒い瞳が露
(あら)わになった。
 その眸が、九十九を見た。
 しかし、まだその眸は、何も認識してはいないようであった。
「久鬼……」
 九十九が、つぶやく。
 久鬼のその眸に、わずかな光が宿った。
「九十九……」
 久鬼の唇が動いた。
「わかるか、久鬼、おれだ……」
 九十九は、穏やかな、低い声で言った。
 浅く、一歩、前に出る。
 ぎる、
 ぎるるるる……
 いくつかの首が、頭部を持ちあげる。
「どうして、ここに……」
 久鬼は言った。
 おまえを助けるために……
 九十九は、その言葉を口にしようとした。
 しかし、口にできなかった。
 助けるといっても、九十九にはどうしたらよいのかわからない。
 その方法を持っていなかった。
 このまま、久鬼玄造たちの来るのを待って、さらに麻酔弾を打ち込んで、久鬼をあの保冷車に収納するのがよいのか。
 それが、できるのか。
 問われて、九十九は、途方にくれた。
「おまえを、救いたい……」
 それだけを言った。
 正直な気持ちだった。
 どうしていいのかはわからないが、それだけは、間違いがない。
 ああ――
 もしも、ここに真壁雲斎
(まかべうんさい)がいてくれたら。
 雲斎なら、どうするであろうか。
 しかし、今、ここに雲斎はいない。




初出 「一冊の本 2013年9月号」朝日新聞出版発行

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