何故、宇名月典善(うなづきてんぜん)がここにいるのか。
 龍王院弘
(りゅおういんひろし)はそう思った。
 自分の方が、かつての師、典善にそう問いたかった。
 自分が、典善のもとから去ったのは、このままでは、いつか自分はこの師と闘うことになると考えたからだ。
 言い出したのは、典善からだ。
 出てゆけと言われたのだ。
 このままじゃあ、おめえを殺しちまうかもしれないと、そういうことを言われたのではなかったか。
 ちょうどよかった。
 龍王院弘自身も、似たようなことを考えていたのだ。
 闘ったら、どうなるか。
 負けるとは思っていなかった。
 しかし、勝てるとも思ってはいなかった。
 だが、このまま一緒にいれば、ある時、ふいにその瞬間が来てしまうような気がした。
 その結果、自分は典善を殺してしまうかもしれない。
 逆に、自分が典善に殺されてしまうかもしれない。
 そういう闘いになるであろうということはよくわかっていた。
 典善も、そう思っていたはずだ。
 しかし、それは思いあがりであったかと、今はそう思っている。もしかしたら、心のどこかで自分はそう思っていて、典善のもとを去ったのかもしれない。
 いつか、典善を倒すためにそのもとを去ったのだと。
 自分は、この典善に対して、屈折した愛情を抱いていると、龍王院弘はよくわかっていた。
 恨みなどはないのだ。
 ただ、一緒にいるどの時も、典善は、一度たりともこの自分に心を許したことなどなかったと、龍王院弘はわかっている。
 典善に認められたい――常にその想いはあった。
 自分が、典善と闘うということは、そういうことであった。
 弟子であるから、師を超える。
 その時、典善は、悦んでくれるのではないか。
 この自分に負け、たとえその結果が死であろうとも、この典善はそれを悦んでくれるのではないか。
 典善に悦ばれたい。
 だから、典善を殺したい――そういう矛盾する想い。
 そんな、夢のようなことまで考えていたのだ。
 しかし、今、典善は、ひとりの男を連れている。
 菊地良二
(きくちりょうじ)。
 足の短い、ずんぐりした小男。
 まだ若い。
 見ただけで、高校生とわかる。
 どうして、こんな男が、宇名月典善とくっついているのか。
 昏
(くら)い眸(め)をしていた。
 陰気で、粘液質な性格。
 そうか。
 わかった。
 典善は今、この男を弟子にしているのか。
 典善好みの何かが、この男にはあるのだろう。
 かつて、自分が、そうであったように。
 ちろり、
 と、暗い、青い炎が、龍王院弘の心の底に点った。
 嫉妬と呼ばれる炎だが、そこまでは、まだ龍王院弘自身も気づいてはいない。
「なんでえ、その面
(つら)は?」
 典善が言った。
「面?」
「ひろしよ、てめえ、ボックとかいう外人にやられたってえ話じゃねえか」
 典善は、唇の片端を吊りあげて嗤
(わら)った。
 どうして、典善はそのようなことを知っているのか。
「よかったな、ひろし」
 典善は言った。
「よかった?」
 苦いものが、こみあげる。
「これで、てめえはもっと強くなるぜえ」
 いつもの典善だ。
 龍王院弘の知っている、宇名月典善のもの言いだ。
「気をつけろよ、ひろし」
 ふいに、典善はそう言った。
「今、おれが連れているこの男、菊地良二と言うのだがな、こいつ、強くなるぜえ。才能は、おめえの十分の一だが、外道の素質はてめえの十倍よ――」
 けく、
 けく、
 けく、
 と、宇名月典善は嗤った。
「まあ、いい。今日は、そういう話をしたくて、こんなところまでやってきたわけじゃねえからな――」
「何故、こんなところに?」
 龍王院弘は訊ねた。
「あるものを、追ってきた……」
 典善は言った。
 あるもの――
 という言葉の響きを、耳で聴いた途端、ぞくりと、戦慄が龍王院弘の背を疾
(はし)り抜けた。
 あるもの、それは、あれではないか。
 ついさっき、龍王院弘自身が遭遇したもの。
 他に、何が考えられるのか。
 微かに、身体が震えた。
「ひろし、てめえ、見たな……」
 宇名月典善がつぶやいた。
 龍王院弘は、唇を噛んだ。
 見た――
 そう言うつもりだった。
 しかし、その言葉が出てこなかった。
 典善の口調からすると、典善は、あれを追ってきたことになる。典善は、すでにあれと出会っているということか。あれを見ていながら、なお、典善はあれを追ってきたというのか。
「震えてるのか、ひろし……」
 典善は言った。
 典善に、怯
(おび)えている様子はない。
 むしろ、興奮しているような様子さえある。
 追っているということは、あれは逃げているということだ。典善と友好的な関係にあるわけではないだろう。
 ということは、つまり、追いついたら、そこで、典善は、あれと闘うことになるのではないか。
 無理だ。
 龍王院弘は思う。
 あれと対峙したら、いかに典善と言えど、闘いようがない。あれは、人間ではないのだ。
 あれが迫ってくると、不思議なことに、喰われてもいい、そういう気持ちになってしまう。
 こいつになら、喰われてもいい。
 そう思ってしまうのである。
 だが、この典善なら――
 龍王院弘は思う。
 この典善なら、平気であれと闘うことができるのではないか。
 龍王院弘がそこまで考えた時、
 ぽっ、
 と、明りが点ったような気がした。
 ここではない。
 別の場所だ。
 ほんの一瞬のことだ。
 本物の明りではない。
 別のもの。
 一瞬の光。
 どういう時に、そういう光を見るのか、龍王院弘は、わかっていた。
 気を、顔に当てられた時だ。
 実際に、気は光を発するわけではないのだが、その光を浴びせられたと、受けた方は感じてしまうことがあるのである。
 時にそれは、熱であったり、風圧であったり、打たれるようなものであったり、様々なものであったりする。
 その時、気を放つ者と受ける者の心のあり方で、それは様々に変化をする。もちろん、物質的な力はともなわないが、生体は、それを感じとることができる。
 当然様々な鍛錬や修行の度合に応じて、それを感じとることのできる者やできぬ者がいるが、龍王院弘も、そして、宇名月典善も、それを感じとることができた。
「む」
 と、典善は、視線を、右手の森の中へ向けた。
 誰かが、典善が視線を向けた方角で、気を放ったのだ。
 それも、相当に大きな、強い気を。
「弘、話はここまでじゃ。ゆかねばならぬでな――」
 宇名月典善は、背を向けた。
「ゆくぞ」
 そう言って、宇名月典善は、疾り出していた。


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画/晴十ナツメグ



初出 「一冊の本 2013年9月号」朝日新聞出版発行

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