(わたしの名は、ツオギェル)
 その声はそう言った。
 中国語である。
 巫炎
えん)の言葉のイントネーションから、中国語を母国語とする人間であると考えたのであろう。
 ツオギェル!?
 あの、ツオギェルか。
 巫炎は、その名を心の中で繰り返した。
(あの狂仏
(ニヨンパ)修行僧のツオギェルか)
 巫炎もまた中国語で言った。
(それを知るあなたは?)
(おれの名は、巫炎。わかるか?)
(わかります。まさか、巫炎、あなたが何故ここに?)
 高音域でのふたりの会話は、保冷車の運転手である池畑
(いけはたたつお)の耳には届いていない。
 声の主、ツオギェルが、保冷車にかなり近づいてきているのは、巫炎にはその声でわかった。
(ツオギェル、今、久鬼
(れいいち)が、おれの息子が撃たれた)
(承知しています)
(細かい話は後だ。おれは、檻の中だ。ここから出してくれ、ツオギェル。保冷車と檻の鍵は、運転手が持っているはずだ)
(わかっています。急ぎたいのはわたしも同じです)
(頼む)
(はい)
 と、ツオギェルの声は答えた。
 それきり、ツオギェルからの声は聴こえなくなった。
 時間が過ぎた。
 一分か、二分か。
 三分、五分は過ぎたか。
 やがて――
 かちゃり、という、鍵の開けられる音が響いてきた。
 続いて、ごとりという保冷車の荷台のロックのはずれる音。
 きい、
 きい、
 音をたてて、保冷車の二枚の扉が、後方に開かれた。
 これまで、闇の中にいた巫炎にとっては、明るい――と、そう表現してもいいような月光が、開いた扉から中に入り込んできた。
 保冷車の中に、ツオギェルが入ってきた。
(ツオギェルか!?)
(はい)
 ツオギェルは、うなずいて近づいてきた。
(今、その檻を開きます)
 ツオギェルは、手にもった鍵を、檻の錠
(じょう)の鍵穴に差し込んだ。
(運転手は?)
 巫炎が問う。
(今、脳震
(のうしんとう)を起こして、眠っています。死んではいません。しばらくすれば、息を吹き返すでしょう)
 カチャッ、
 という音がした。
 錠が解かれ、檻の扉が開かれた。
「ありがたい」
 巫炎は、声を通常の音域にもどして言った。
 巫炎は、立ちあがり、檻の扉から外へ出た。
「九鬼麗一が撃たれ、むこうの森へ落ちました。助けにゆかねばなりません」
「おれもゆこう」
「では、急ぎましょう。話はその道々に――」
「わかった」
 ツオギェルと巫炎は、保冷車の荷台から、月光の中へ出ていた。



初出 「一冊の本 2013年9月号」朝日新聞出版発行

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