しかし、久鬼は、そこに立ったが、すぐには動かなかった。
 久鬼の本体――人間の久鬼の顔が、半分、もとにもどっていた。
 吊りあがっていた眼尻の角度がわずかに緩やかになっている。
 久鬼は、不思議そうな顔をしていた。
 今、自分に何が起こったのか、それがわからないという顔だ。
 九十九も、久鬼を見つめながら、立ちあがった。
 気という力は、もとより物理力ではない。
 物理力ではないが、今のような放ち方をすれば、体力は消耗する。
 ゆるやかに、全身の細胞に、力がもどってくる。
「大丈夫です……」
 九十九は、吐月の横に並んだ。
 雲斎に救われた。
 その思いがある。
 石との対話がなかったら、自分は死んでいたところだ。
 しかし、そのいったんは永らえた生命(いのち)も、すぐにまたキマイラ化した久鬼の前にさらされることになる。
 そう思った時、久鬼の表情に、変化が起こった。
 久鬼の眸(め)が、遠くを見つめたのだ。
 天上に輝く月よりもさらに彼方にあるものを探すように。
 その双眸(そうぼう)は、次に、地上へ向けられた。
 その視線が、動く。
 九十九の上を動き、吐月の上を動き、さらに森の奥へとその視線が動いてゆく。九十九や吐月のことを、もう、久鬼は忘れてしまったようであった。久鬼の興味は、何か別のものに移ってしまったかのようであった。
 久鬼の口が開いた。
 その口の中で、舌が動き、唇が閉じられたり開かれたりする。
 何か声を発しているらしいが、その声が聴こえない。
 と――
 動いていた久鬼の視線が止まった。
 その視線は、九十九と吐月の立つ、すぐ左側の森の奥に向けられた。
 そこから、ふたりの男が出てきた。
 濃い、小豆色の僧衣を身に纏(まと)った男――狂仏(ニヨンパ)ツオギェルと、そして、巫炎(ふえん)であった。巫炎は、削ぎ落とされたような頬をしていた。
 髪が長く、双眸が怖いくらいに光っている。
 九十九は、ひと目見て、それが巫炎であるとわかった。
 貌(かお)が、久鬼と、大鳳に似ている。
 しかし――
 巫炎は、しばらく前、銃で撃たれたのではなかったか。
 完全にキマイラ化していない状態で、銃弾を受けた時のダメージは大きい。
 その時、今回、久鬼が受けたほどではないにしろ、麻酔弾を打ち込まれているはずであった。
 なんという肉体の回復力であることか。
「九十九くんか……」
 巫炎は、足を止めて、そう言った。
 巫炎は、すでに、円空山で、真壁雲斎と出会っている。
 九十九も、そのおりの話は雲斎から耳にしている。
 一九〇センチを軽く越えて、二メートルに迫ろうとする九十九の巨体を見て、すぐに誰であるかわかったのであろう。
 巫炎は、吐月をさらりと見やったが、今は、巫炎も吐月と言葉を交わしているゆとりはなかった。
「はい」
 と、うなずいた九十九に、
「ここは、我々にまかせてもらいたい」
 巫炎は言った。
 巫炎は、久鬼と大鳳の実の父である。その人間にこう言われて、まかせないわけにはいかない。いや、まかせることに、九十九は異存はない。
 九十九が、吐月に眼をやると、
「九十九くん、その方がいい」
 九十九の考えを、肯定した。
「お願いします」
 九十九は、巫炎に言った。




初出 「一冊の本 2013年10月号」朝日新聞出版発行

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